薄紅の霞
「ジェラードさん、怒られますよ」
「心配性じゃのう。もし見つかっても妾なら大丈夫じゃ」
閑散とした広い空間に、囁き声と無邪気な声が響く。
以前は常に誰か居たヴァルハラ宮殿の王座。そこへ向かって元王女様が駆け出す。その後ろから、仕方ないという様子で那々美は続いた。
「誰も使わなければ宝の持ち腐れじゃ。その点、使ってもらえる方がこれも嬉しかろう」
大きな玉座をぽんぽんと叩いてジェラードが言う。
「それに、ここに座ればミッドガルドの事も良く見えるというし」
「だからこそ、軽々しく使っていいものではないと思うんですけど」
誰か来はしないかと気が気ではなく、那々美は辺りを見回した。
「だったら、鍵をかけないヴァルキリーが悪いのじゃ。心配するな、もし怒られるとしてもそれは妾だけじゃ」
そう言うと、那々美が言い返す前にジェラードは玉座に飛び乗った。小さな少女をすっぽり包み込むような大きな玉座に座ると、ジェラードは目を閉じてみる。
「…あの…ジェラードさん?」
眉間に皺を寄せながら一生懸命目を閉じているジェラードに、恐る恐る声をかける。
「あんまり上手くいかないのう」
ジェラードの目蓋の裏には確かにミッドガルドが映ってはいるのだが、自分が見たいアルトリアをどうやって見ればいいのかわからない。ジェラード自身は地理を真剣に学んではおらず、レナスと共に翔けたミッドガルドの空は理解できても、どこに何があるのかはさっぱりなのだ。「アルトリアが見たい」と願えば見れるというものではない。
「海藍は島国じゃから、すぐにわかるんじゃが」
「そうなんですか?」
海藍という言葉に、那々美自身も少し見てみたい気持ちになってくる。ラグナロク後、海藍へ出向いた事はなかった。
「なんだかピンク色のもやみたいなものがたくさん見えるぞ。何か危ないのではないか?」
不死者の類の仕業だと思ったジェラードに、那々美は笑みをこぼした。ミッドガルドでは今は春なのだ。
「それは桜というんですよ。別におかしなものじゃないです」
倭国にしか咲かないその花は、世間知らずのお姫様でなくても知らない者が多い。那々美は生前に見た桜を思い出して、なんだか懐かしい気持ちになった。薄紅色のその空間で、昔は何を望み、何を願っていたのだろう。
「そこで何をしているの!!」
広間中に響き渡る怒声に、ジェラードは玉座から転がり落ち、那々美は袖で顔を覆った。
何もない空間に波紋と共に現れたフレイは、豊穣の女神の名とはかけ離れた形相で二人の方へと近づいてくる。
「な、何もしておらんぞっ」
少しも説得力のない言葉だとわかっていてもジェラードはそう言い、那々美の背後へと隠れようとする。
「かつてはオーディン様が座っておられたその尊い玉座に、エインフェリアごときが触れていいと思っているの!?」
「も、申し訳ございませんっ」
なぜか那々美が謝り、着物を引っ張るジェラードに続いて急いで出口へと向かう。
「待ちなさい! 許されると思っているの!?」
しかし、その怒りの声が凄まじく、できるだけその声から逃れようと死に物狂いで扉の外へと駆け出し、そのまま全速力で走った。体力には自身がないが、それでも走れるだけ走る。
「おお! いいところに!」
前方にレナスの姿が見えて、ジェラードは嬉々とした声をあげた。彼女がいれば、フレイに追いつかれてもさほど酷い罰は受けないだろう。
「今度は何をしたの?」
「事情は後じゃ!」
抱きついてきたジェラードと、その少し後ろを懸命に走る那々美を体内に取り込み、レナスはその場を後にした。
「ヴァルキリーはフレイと違って話がわかるのぅ」
神界に居られなくなり、下界に降り立ちた。幽体のままなので何も感じはしないが、ぽかぽかとした暖かい日差しが降り注いでいる。ウグイスの鳴き声や独特の旗を掲げる木船が海に浮かぶ様子から、ここが倭国だということが察せられる。久しぶりの母国に、那々美は思わずまじまじと木の葉の一枚一枚までを眺めた。
「ジェラード、フレイが怒る理由がわからない?」
「あのような怒り方をされなければならない程の事はしていないぞ」
ジェラードはぷくっと頬を膨らませて怒る。
「あなたも、自分の父王の玉座に他人が座れば怒るのではないの?」
「しかし、今はそなたが創造主ではないか! あの者は昔にこだわりすぎておるのではないか?」
「…わかった。フレイの怒りの原因がわからないならそれはそれとしても、無断であそこへ入るべきではないわ。那々美まで巻き込んで」
「いえ、私は…」
少しでも見たいと思ってしまったため、巻き込まれたとは言えないかもしれないと那々美は思った。第一、無理強いされてあそこに居たわけではないのだし。
「とにかく、今から不死者の浄化を手伝ってもらうわ。那々美はしばらくここに居てくれないかしら」
「あ、はい」
「…わ、妾だけなのか?」
情けない声を出すジェラードを再度体内に取り込み、レナスは甲冑を身に纏うと空へと飛び立っていった。
「……」
少しほっとして、那々美は息をついた。フレイから逃れられたという実感が今になって沸いてきたのかもしれない。それに、ジェラードの事は慕っていても、彼女と居るといつ何が起こるのかわからずに落ち着かないのだ。
しばらく待っていろと言われたものの、浄化に行ったのならそれなりに時間がかかるだろうと思い、那々美は気が向いた方向へ歩き出した。ジェラードが遠くから見た桜を、那々美自身が見たくなったのだ。もやに見えるほどなら、今はきっと見頃だろう。
広い森だと思っていたが、鬱蒼と茂る木々は次第に間隔を開けていき、人の気配がする所へと出た。遠くに朱色の建物も見える。すぐそこが海藍なのだ。
那々美は自分の体を見た。幽体である事を確認しておきたかった。…もし人に会っても大丈夫なように。自分が透けて見える事を確認し、再び彼女は歩き出した。
歩くにつれて、足元に薄紅色の花びらが混じるようになってきた。近くに木があるのだ。
「もう散り始めてるのね」
神界は常春なので、季節の間隔があまりない。生前、四季を感じてきた倭国の者にとって、久しぶりに感じる季節というものはとても嬉しいものだった。
「あった…」
桜の木を見つけた。それは森を抜け、建物の裏に出た所だった。
散り始めの桜は、所々若葉が顔を覗かせているが、まだたくさんの花をつけていた。那々美自身には感じられない風に花弁を散らせている。
「この建物、いつ頃立ったのかしら…」
ふと、気になって建物の方へと意識を向けた。桜の木自体に見覚えがあった。生前見たことがあるのだ。しかし、その時にはまだこの辺りには何も建っていなかった。
「祠か何かかしら?」
朱色の柱に支えられた建物は、人家には見えず、神や仏のためのもののような装飾が施されていた。
「一人で大丈夫?」
「はい。先に帰っていてください。後少しですから」
建物の向こうから声が聞こえ、那々美は自分の口を両手で押さえた。自分の声が勝手に出たのかと錯覚したのだ。けれど、声の主は別に居て、建物の向こう側から現れた。
自分と同じ姿形をしたその人は、箒を持ち、こちらへとやってきた。
「美那代ちゃん…」
その名前を呼ぶと、懐かしいのと同時に酷く悲しい気持ちになった。彼女はまだ、那々美として暮らしているのだ。それは世界の終末を過ぎても変わりない。
あの時自分は、自分自身を捧げたけれど、それは良い行いだったのだろうか? 魂を滅されずに済んだのだから、存在できるだけ良いのかもしれないが、自分を隠しながら生きるのは辛い事だろう。そう思うと、風も触れられない彼女の頬に涙が伝った。
ふと、目が合った。
錯覚かもしれない。しかし、美那代は箒を動かす手を止めて、代わりに手を伸ばした。そこに何かがあるように。
触れられるわけはなかった。けれど、自分の顔に触れそうな所へ伸ばされた美那代の手を包むように、那々美は両手を伸ばした。
「ごめんなさい」
本当は、少し恨んでいた。やはり自分が一番、怒り、悲しみ、寂しがっていたのだと、どこかでそう考えていたのかもしれない。喜ぶ両親の腕に抱かれているのは自分であったはずだと。
最近は楽しい事や嬉しい事が多くてそんな事は忘れていたけれど、那々美が忘れても、美那代は生きている限り忘れる事はできないのだ。那々美として振舞う以上、自分がした事も、自分が那々美ではない事も。
「…ここで、花見をしたわね」
独り言とも、話しかけているともとれない口調で美那代は言った。
「私は彷徨っていたけれど、あの時、後ろに居たのよ」
義理の両親とここへ来た事があった。花見といっても、本当にただ見るだけだったけれど。綺麗だね、と。そう言って、何事もなく三人で笑っていた。その後ろに、誰かが居ても気づかずに。
「…美那代ちゃん…」
涙が止め処なく溢れ、他に何も言えなかった。
懐にある、彼女が渡してくれた護身刀が急に重みが増して感じられた。
戦争へと赴く自分に、戦乙女を介して渡してくれた大事なもの。那々美はそれを取り出した。
「私には、もう必要ないの」
戦うこともない。慕うべき仲間がおり、穏やかに暮らしている。
渡せるはずがないそれは、美那代の手に乗ると同時に物体としての色を宿し、重みを伴ってその手に収まった。
美那代が、少し驚く。自分の手の中の護身刀を見つめて。
「私、これからはずっと見ているから」
頑張るあなたを。ささやかな応援をその刀にこめて。
強い風が吹いた。
那々美の髪も服も揺れないかわりに、美那代の黒髪と巫女装束が揺れた。
桜の舞うそのもやの中で、彼女は唇を噛み締め、瞳を閉じた。
2006年03月22日UP
那々美と美那代って実年齢はどれくらい差があるもんなんだろうかと思うんですが。
美那代ちゃんって言ってるから、そんなに離れてないのかな?