温かくやわらかく
時をあまり感じない神界でも、夜は巡り、朝は繰り返される。
「(…何かあったのかしら)」
朝。レナスは身支度を整えて自室を後にしたのだが、いつもの朝とは違う事があった。
毎朝、部屋の窓からは、朝日の中で散歩をしているルシオを見かけるのだけれど、今日はそれがなかったのだ。些細な事だけれど、いつもの光景がふと無くなるのは妙に不安を覚える事だった。
神殿を出て澄んだ朝の空気の中へ出る。まだ時間は早く、辺りにはあまり人がいなかった。
「ヴァルキリー様、おはようございます」
「おはよう」
那々美が箒を持ってそこに立っていた。彼女も、いつもの光景の一つだった。毎朝早くから掃除をしている。誰に言われているわけでもないのだけれど。
「ルシオさん、今日は向こうへ行ってしまいましたよ」
レナスが何をしに来たのか当然解っている彼女は、にこにこしながら言った。彼女の指差す先は、いつもルシオがいる所とは正反対だった。
「いつも通りにいらしたんですけど、ロキさんと話をされてから、あちらへ行ってしまったんです」
レナスが尋ねるより前に、那々美は言った。倭国の者は、人の気持ちを推し量って気を利かせてくれるので、レナスは時々感心する。そこはまた、独特の文化がそのように人を育むのだろうと思うのだが、自分は倭国の民になった事はないのでよくわからなかった。
「ありがとう。それはそうと、毎朝掃除をしているわね」
「生前の習慣ですから。これをしないと、なんだか落ち着かないんです」
照れ笑いする彼女を微笑ましく思いながら、レナスはルシオの向かった先へと足を運んだ。
長い一本道を過ぎ、鈴蘭の群れを越える。彼の事だから、鈴蘭を見ているのではないかと思ったが、予想に反して彼はそこにはいなかった。それではどこへ行ったのだろうと思いながら歩を進めると、行き着いたのは転生の場だった。
戦乙女が人から神へ、神から人へと移るための神殿だ。中は狭く、取り立てて何かがあるわけではない。ルシオが向かったのはもっと先かとも考えたが、念のため、そこを覗いてみることにした。
「…ルシオ」
いつもなら自分が立っているはずの場所に、彼の姿があった。外から差し込む光を眩しそうに見つめていたが、レナスの声に気づくと、こちらを向いた。
「おはよう、プラチナ」
やや元気のない返事だったが、一応彼は笑っていた。ここへ来る道すがら考えていた事だが、やはりロキが何か余計な事を言ったのだろう。いたずら好きという点では、彼は以前と変わらない。
「ロキと、何を話していたの?」
単刀直入にレナスは訊いてみた。
「…あまり気にするべきではないわ」
「そうだね。これが初めてじゃないんだし」
彼にそそのかされて、水鏡の間へ行った時の事を言っているのだろう。
「ルシオ…」
彼は何かを我慢するのが得意だった。そういう環境で育ち、生前はずっとそのような中で暮らしていたのだから仕方がないことなのかもしれないが。
「プラチナ」
けれど珍しく、ルシオは口にした。普段は悩みを誰かに話す事など滅多にないけれど。
「俺は…君の事をなんて呼べばいい?」
思ったほど深刻な事ではなく、レナスは少し気が抜けた。けれど、ルシオは真剣な瞳をそのままに話を続ける。
「プラチナか、ヴァルキリーか…それともレナスか。けど俺は、本当のところ、どうすれば…」
「今まで通りにプラチナでは駄目なの?」
「君はプラチナだけど、でも、プラチナであるだけではないだろう? もっと以前の色々な人生も知っているレナス・ヴァルキュリアだ。俺は、プラチナが好きなのか、君自身が好きなのか、よくわからないんだ」
どう言葉を返せばいいのかわからなかった。プラチナの時の記憶や想い、それ以前の人生の中で出会った何人ものルシオ、ヴァルキリーであった時にわずかに感じた彼への温かい気持ち、そのどれも、ルシオにはわからないものだった。それと同時に、ルシオがなぜそこで悩むのかがレナスにはよくわからなかった。わからなければ、上手く言葉を返せるはずもない。
「私は、プラチナで構わないのだけれど」
「そうだね…やっぱり、プラチナって呼ぶよ。あんまり考え込む事でもなかったかもしれない」
そう言ってルシオは無理に笑ったが、帰り道は口数も少なかった。
レナスは少し考えた。
「(ルシオの事だもの。ああは言っていても、きっと何日も何週間も迷い続けるわ)」
死んだ自分の事を何年も思い悩んでいたように。死んでも忘れずにいてくれた事は、嬉しいといえば嬉しいのだが、少し度が過ぎるというか、適応能力がないというか、現実逃避というか、なんだか、あまり良い事ではないように思った。
「(プラチナとして、何かをしないと)」
自分自身がレナスなのかプラチナなのか、などという事は、彼女自身は全く悩んでいなかった。どれも自分だし、どれか一つだけでもそれは立派に自分だと思うのだ。アリューゼやメルティーナなど、過去も今も変わらずにいる人々もいる。記憶がなくても、レナスは彼らをエインフェリアとして選定したし、彼らもまたついてきた。人として生きていても、何度もルシオと出会って恋をした。そういう体験を幾度とこなし、見ていると、結局記憶など問題ではなく、魂がそのように動くのだと彼女は思うのだ。
しかしそれはそれとして、ルシオには何かしなくてはならないと思った。できれば、元気な彼を見ていたい。
「そういえば…」
ふと思い立つものがあり、レナスは書庫へと足を向けた。
「(簡単なものだったけれど、ルシオは喜んでくれたっけ)」
何十年も前の自分が作った料理を、彼はとても嬉しそうに食べてくれた。プラチナだった頃には料理なんて作る時間も材料もなかったので機会はなかったが、きっと今の彼も喜んでくれるだろう。
書庫への扉を開く。神界のほとんどの書物はここに保管されているので、何かを調べようと思えばここに来ればよい。ミッドガルドに関する資料も豊富なので、料理本の一つや二つも置いてあるだろう。
「あら、ヴァルキリー。邪魔してるわよ」
足を組み、肘をつきながらひらひらとメルティーナが手を振った。古く分厚い書物を広げている。
「熱心ね、メルティーナ。ビフレストに関するもの?」
「違うわ。神サマから見た人間についての本。中々面白い思考してると思って。それより、ヴァルキリーも何か調べ物なの?」
「ええ、少し」
そう言って本棚へ向かって歩いていくと、メルティーナも後ろからついてきた。
「面白そうね。どうせまた変な事やらかすんでしょ?」
「別にメルティーナには面白くないと思うわ。料理を作るだけだもの」
レナスの言葉に、メルティーナは先程よりも目を輝かせて歩み寄る。面白いものだと判断したらしい。
「ルシオにでしょ? 何作るのよ? …ていうか、私達って物食べれたっけ?」
「特に食べる必要はないけれど、食べる事ができないわけではないわ。娯楽や能力向上のための食事ね」
「そういえば、金の卵とか食べたわねぇ。で、何作るの?」
「そうね…」
実は、それはまだ考えていなかった。
「ケーキ、なんてどうかしら?」
レシピが大勢集まった棚の中で、ふとその文字が目に入った。
「ルシオって、甘い物大丈夫なの?」
「…どうだったかしら」
というか、甘い物などルシオは食べた事がないだろう。味覚まで何十年前のルシオと一緒かどうかは確信がもてない。食べた事がないものを突然食べてどう感じるのかは、さすがに。
「だったらさぁ、やっぱ豪勢にフルコースでも作ってみたら? あ、ルシオはテーブルマナーとか知らない?」
「ジェラベルンへ行ってからはどうかわからないけど、コリアンドル村では固形のものはあまり食べられなかったわ」
「よく生きてたわね、あんたたち…」
とりあえず、食べた事がないものは極力避けようと考えた。後々、挑戦のつもりで食べてもらうのはいいかもしれないが、悩んでいる今の彼にそれを求めるのは無理だろう。悪化してしまえば元も子もない。
「じゃあ…まぁ、論外の本を外しながら考えたほうがよさそうね。お菓子はダメでしょー…」
ブツブツと独り言を言いながら、メルティーナは次々と本棚から本を外していく。エーテルコーティングはしてあるが、その本の扱いはないだろうという感じにボンボンと投げ捨てる。
「倭国の料理なんてもってのほかよねー。文化の違いもここまでくると、さすがに受け入れがたいっていうか」
床にどんどん降り積もっていく本。確かに、100の中から1を探すよりは99を取り除いてしまったほうが楽なのかもしれないが、それにしてもすごい量になってきた。
「メルティーナ、その辺に…」
いい加減やめさせたほうが良いと思ったその時、メルティーナが投げ捨てようとしていたその手を止めた。
「あら、これはOKなの?」
「…あなた、何も考えずに投げてたの?」
「だって、固形のものは食べなかったって言ったから」
「まぁ…数えるほどしか食べられなかったけれどね」
メルティーナから本を受け取り、ページをパラパラとめくってみる。作り方も、そんなに難しいものではなさそうだ。
「もうちょっと色気のあるもん作りなさいよ」
色気のある料理がどんなものかはよくわからないが、レナスはあまり考えない事にした。
「いいわ、これに決めた」
ぱたんと本を閉じ、メルティーナを見据える。
「…いいわよ。手伝えって言うんでしょ? どうせ暇だしね」
「その前に、ここを片付けるわよ。フレイに何を言われるかわかったものではないわ」
「はーいはいはい、肩身の狭い創造主サマなんだから」
文句を言いながらも、一つずつ本を戻していくメルティーナを見て、それから手の中の本を見る。
ルシオが喜んでくれるかどうかはまだわからないけれど、喜んでくれた時の事を考え、レナスの頬はほころんだ。
『プラチナ』
河原で洗濯をしていると、脇に彼が立っていた。
『ルシオ…それは?』
『ん…いいから、ほら』
農作業でボロボロになった手で、ルシオはパンを差し出した。手の中に収まってしまうほどの小さなパン。けれど、それはこの村ではとても貴重なものだった。子どもにまで回ってくるようなものではない。プラチナとて、親が食べているのを見た事があるだけで、自分が手に取る事があるとは思ってもみなかった。
受け取ると、水仕事で凍えた手にはパンは温かいように感じた。指先の感覚はないけれど、軟らかい気も。
『早く食べちまえよ。見つかっちまうぞ』
プラチナの横に座り込むと、ルシオは一口齧った。
『でも…一体どうしたの? これ…』
『俺の分だから、大丈夫』
そう言われてもどうしていいのかわからず、プラチナは手の中を見つめた。水から離れた手に感覚が戻ってくると、パンは固く冷たく感じた。
『急にたくさん食べたら腹壊すからさ。だから持ってきたんだ』
パンを引き千切りながら食べるルシオを見て、プラチナも空腹を思い出した。いつもは水で満たしているが、こうして食べ物を目の前にすると、やはり水よりこちらのほうが欲しくてたまらなくなってくる。
我慢できずに、恐る恐る齧った。思いのほか硬かった。それでも、胃に物が落ちると、足の先まで力が入るようだった。
『おいしい』
『よかった。古いパンみたいだから、駄目かなと思ったけど』
プラチナは首を振り、もう一口食べた。
ルシオも食べる。
『焼きたては、熱くって軟らかいんだってさ』
『…そうなんだ』
それはまるで別世界の事のように聞こえた。平等に貧しいこの村で育った二人には、世の中のどれくらいの人間がパンを毎日食べているかなどは知りもしなかった。贅沢な食事がどういった物かも。ただ、自分達が貧しいという事だけはわかっていたけれど。
『……ルシオ?』
俯いて、乾いたパンにポタポタと涙を零している彼に気づき、プラチナは戸惑った。彼女はまだ、ルシオの妹がこのパンの代わりに村から消えたなどと知るはずもないのだから。仕方なく、ルシオを背中をさすってはみるものの、ルシオは嗚咽を漏らしながら泣き続けるだけだった。
「ルシオッ」
呼びかけると、ルシオは驚いたように起き上がった。
「…あれ?」
「おはよう、ルシオ」
眠っていたルシオの髪に絡まった鈴蘭の花びらを取り除きながら、レナスは少し笑ってしまった。あまりにもルシオが呆けた顔をしたものだから。
「どうかしたのかい? 嬉しそうな顔して」
「あなたと食べようと思って」
くすくす笑いながら、後ろ手に持っていたバスケットを差し出した。その中には、大きさも形もさまざまなパンがころころと入っている。
「本当はもっとたくさん作ったのだけれど、皆に見つかって取られてしまったのよ」
「作った?」
「ええ」
バスケットの中から比較的大きなものを取り出して、手渡す。軟らかくて、まだ少し熱いくらいの温かさ。
「ルシオ、食べて」
「あ、うん…」
じっと見つめられる中、ルシオは少し緊張しながら口をつける。
「…どうかしら?」
「すごく、おいしいよ」
「よかった!」
笑顔でそう言うと、自分もバスケットから一つとって食べ始める。その嬉しそうな横顔を見て、ルシオも頬が緩んだ。それを見つけて、レナスが笑う。
「ルシオ、少し元気になれた?」
「心配かけてばっかりだよな…ごめん」
「…あのね、ルシオ。少しだけ、秘密にしていたことがあるの」
少し躊躇いながら、レナスは切り出した。けれど、少々恥ずかしくても、それで笑顔が戻ってくれるのなら言ってしまおうと、パンを作りながら思っていたことだった。思えば彼は、ずっと素直に自分の気持ちを教えてくれていたから。
「私、記憶がない時も、ルシオの事が気になってたわ」
言ってから、やはり少し恥ずかしくなって視線を落とす。
「ありえない感情だと思うから、考えないようにしてたのよ、その時は」
「プラチナ」
レナスの背中に腕が回り、抱きしめられる。レナスはそっと、ルシオの背中の撫でた。
「…ありがとう」
「ルシオ…もう、どこへも行かないで…」
「行かないよ」
お互い、そっと腕を放して別れた。少し名残惜しいけれど。
「冷めてしまう前に、もう一つ食べる?」
「うん」
二つ目を受け取ると、嬉しそうに頬張る。その様を見ていると、やはりレナスは嬉しくなった。結局は、自分のためだったのかもしれないと思う。ルシオのために何かしなくては、と思ったけれど…。
「ルシオ、あなたのこと好きよ」
そう言うと、笑顔を見せてくれる。
胸の奥の温かさ。パンを食べたせいではないその温もりの大切さを、彼女は静かに感じていた。
(前半)2006年04月09日(後半)2006年05月04日UP
パンを作る過程も書いていたけど、なんだかごちゃごちゃになったので省いたら、短くなりすぎました。前・後に分けなくてもよかったかも…。
ルシオとレナスがケンカしたらこんな感じかな? と思って書いたけど、ケンカなんだろうか、これ。