チョコは誰のもの?
和の雰囲気が漂う居間には似合わない、甘い匂いが充満している。
甘い物が嫌いな人間だったならば逃げ出したくなるほどだったが、彼は嫌がるどころか内心の喜びを隠そうともせずにその場に居座っていた。
獅堂優。次男。大学生。彼女はいないけれど、別に募集もしていない。
講義が終わって帰宅してみれば、家の中は今のような様子だった。母は外出中(おそらく買い物)、長男は道場の方で小学生の相手をしており、三男はまだ学校の中だろう。
コタツに足を突っ込んだまま、そこから見える台所を見つめていた。
ぴょこぴょこと赤い三つ編みを揺らしながら、この家の一人娘が背中を向けて何かと格闘していた。
明日は2月14日。バレンタインデーである。
たとえ義理であっても(当たり前だが)、毎年くれる妹のプレゼントは、彼には楽しみな物らしい。誰も見ていないのが幸いだが、頬の筋肉が緩みっぱなしの彼の顔は、少々怪しいものである。
溶けたチョコレートの甘い匂いは、母が夕飯の準備を始めるまで漂っていた。
イベントが大好きな女子中学生は、平日にも関わらず、異世界を訪れた。
前もってバレンタインデーのことを予告されていただけに、異世界の人々も楽しみである。到着した時には、すでにお茶会の準備が整っていた。
「すごいわ…こんなに大きいの、大変だったでしょう?」
プレセアが、海特製の特大チョコレートケーキを前に、目を皿にした。
「自信作よ! ちゃんとパパとママに味見してもらったし」
「せやけど、今日は『好きな子にチョコをあげる日』なんとちゃうん?」
「私はそんな子いないから、今年は皆にプレゼントなの」
そう言って人数分に切り出す海の見えないところで、カルディナはアスコットを慰めた。彼のアピールが功を奏する様子は見られない。
「そういえば、王子とフウの姿がないわ」
「邪魔しちゃ悪いから、二人の分だけとっときましょ」
いつも気がつくと消えている二人は、今もどこかで甘い時間を過ごしているに違いない。
一方、少し離れたところでは、何のためらいもなく包みを差し出す光の姿があった。
「ありがとうございます、ヒカル」
まだ病み上がりのイーグルは、眠そうな表情の中にも笑顔を浮かべてみせる。早速一口食べてみると、「とっても美味しいですよ」と感想を述べていた。
「ランティスのは甘くないようにしたから、多分大丈夫だよ」
包みを凝視したまま動かなくなってしまったランティスに、ちょっと焦りながら光が言葉を添える。しかし、それでも彼は微動だにしなかった。
すぐにでも食べてしまいたい気持ちと、折角のプレゼントなのだから大事にとっておきたい気持ちとが葛藤しているのだ。案外貧乏性なのかもしれない。
「そんなことしていたら、折角のチョコレートが溶けてしまいますよ」
僕が食べてあげます、と横取りしたイーグルだが、それを素早く奪い返すと、ランティスは口の中へと放り込んだ。
黙々と食べ始めたランティスと、嬉しそうに食べるイーグルを見て、光もにっこりと笑った。
(よかった。味は大丈夫だったんだ)
しかし、何かを忘れているという気持ちが、頭の隅から中々消えてはくれなかった。
夕日に照らされて橙色に染まる東京タワーの展望台に、到着した時だった。
「あ!」
「どうしたの? 忘れ物?」
突然焦りだした光に、海も風も目を丸くする。
「取りに戻りましょうか?」
しかし、風の申し出にも、光は首を振る。
「違うんだ。兄様達の分、チョコレート作るの忘れちゃって…」
ランティスの分とイーグルの分。二種類作るのに必死になっていて、兄のことはすっかり忘れてしまっていた。
「じゃ、今からお店に寄りましょ。近くにいい所知ってるわ」
「…でも、家で作ってたのに、買って帰るのって何だか変…じゃないかな?」
その疑問に、三人で考え込む。
妹の手作りチョコが自分達に回ってこなかった時の兄達の反応は、海にも風にも想像に容易かった。
「光」
海の両手が、がしりと光の肩を掴む。
「光のチョコは、私と風にあげたって言うのよ。いいわね?」
真剣な海の眼差しに、少々たじろいでしまう。
「う、嘘つくの?」
「獅堂家の平和のためですわ、光さん」
「間違っても、『ランティスとイーグル』なんて言っちゃ駄目よ」
「う、うん…」
そうとなれば、なんとか兄の気を手作りチョコから逸らせることができるような物を探しに行こうと、海と風は情報提供を始めた。
そんな二人に挟まれながらも、光は事の重大さには全く気付かない。ただ、彼女自身がすまないと思うだけだ。
結局、海と風の判断でハート型のチョコレートに決定したが、兄達が落胆することを防ぐことはできなかった。
2007年03月18日UP
「This Moment」とあわせて、バレンタインにUPしました。