ただ過去に愛した人を懐かしむ
「ねぇ、父様は母様とどこで出会ったの?」
それは、女の子なら一度は気にする事柄だ。結婚に至る運命の人との出会い。一番身近にいる体験者に、その実体験を尋ねるのだ。私はこの時まだ十歳になったばかりで、それこそ恋に恋するお年頃だった。
「覚伯父様と大学が一緒だったんだよ。同じ時期に通うことはなかったけど、サークルのOBとして稽古をつけに来てくれた時に仲良くなって、ここの剣道場にも通うようになったんだ」
ここ、というのは、私の家のことだ。獅堂流剣道場。末娘の母様は、父様を婿養子にとってこの道場を継いだ。覚伯父様がいるのになんでそうなったのかというと、覚伯父様自身が婿養子に行ってしまったから。父様が母様と結婚するまでは通いで師範を務めてくれていたという話は、道場に通う古株の人から聞いている。
「じゃあ、母様は、生まれ育った場所が初恋の場所でもあるんだ。いいなぁ」
実際には古臭くて汗臭い道場だけど、響きだけならロマンチックだ。自分にもそんな出会いがあるかな。隣のクラスのあの子が、ここに通いにきてくれないかな、なんて、希望に胸が膨らむ。
「初恋? どうかな。そんな風には見えなかったよ」
「えー、だって、あの母様だよ?」
母様そっくりの顔で、そんなこと言うんじゃありません、と冗談交じりに窘められた。
娘の私が言うのだから間違いないが、母様はどう見ても恋多き乙女という感じではなかった。剣道の腕はすごいし、私自身は母様のことが大好きだけれど―――正直、母様には女らしさがあまりない。昔の写真を見ると、余計にそう思う。
けれどそれを父様に言うと、「いかにもな女らしさがなくても、母様はすごく魅力的だよ」と、歯の浮くようなセリフが返ってきた。
「そう。私もズバリ、気になることがあるのよ」
その話を、龍咲渚ちゃん(私より二つ年上の、母様の友達の子だ)にすると、人差し指をぴっと突き付けてそう言われた。その隣で、鳳凰寺翼ちゃん(この子も、母様の友達の子。もう中学生だから、とてもお姉さんだ)がくすくす笑っている。
私達の親はとても仲が良くて、昔からたまに集まっては仲良くお喋りしたり、買物に行ったりする。だから、二人とも、私の幼馴染みたいなものだ。ちょっと歳の差はあるけど。
「ママ達、しょっちゅう東京タワーに行くじゃない? 何が楽しくてあんなところ行くのよ。きっと何か隠し事をしてるんだと思うの」
「隠し事と言いますと……」
翼ちゃんの眼鏡がきらりと光る。お上品な雰囲気のお嬢様なのに、こうされると、私も渚ちゃんも、生唾を飲み込んで動きを止めてしまうんだ。
「……初恋の方が、東京タワーにいらっしゃるとか。先程のみちるさんのお話ではありませんが」
「うーん…一理あるわね。東京タワーに行く時に限って、私達を家に置いていくんだから」
「翼ちゃん、すごい!」
「まだ決まったわけではありませんわ」
子どもというのは時に短絡的だが、この時、私は翼ちゃんの考えがずばり的中していると、何の根拠もなしに確信した。そして、偶然にも、それは案外当たらずとも遠からずだったのだ。
私は早速、私達の子守を頼まれている父様に「外で遊んでくる」と叫ぶように告げて、二人と一緒に家を飛び出した。
それは、母様達が出掛けてから、まだ十分と少ししか経っていない時のことだ。今ならまだ追いつけると、三人とも考えていたのだと思う。
この時の私の心の中にあったのは、好奇心だけだった。渚ちゃんと翼ちゃんがどうだったのかは分からない。けれど、わくわくと楽しそうにしていたので、きっと二人も同じだったのだと思う。
電車に乗り、東京タワーへの道を急ぐ。タワーに入る母様達の後ろ姿を見つけて、三人で顔を見合わせてくすくす笑った。展望台へと進んでいく母様達は、やっぱり何か一つの目的があるかのような雰囲気だった。お土産を買いに来たのでも、景色を見に来たのでもない。見つからないように後をつけながら、もしかして、とんでもない秘密を知ってしまうんじゃないか…なんて、ドキドキしていた。
「…何してるのかな?」
「しっ。聞こえるわよ」
物陰から、母様達の様子を盗み見る。母様達は、円になって手を繋いだまま、じっと動かなくなってしまったのだ。三人共目を瞑っている。
これ幸いと、そーっと母様達に近付いた。なるべく近くに寄りたかったのだけど、それが幸か不幸か。未だに、この体験をして良かったのかどうか、私には分からない。
母様達のすぐそばに、大きな何かがぱかっと口を開けたように見えた。そしてその中に、母様達も、私達三人も吸いこまれていく。驚いて悲鳴を上げてしまった私達は、母様達にも見つかってしまった。
「コラ! 三人揃って、こんな所で何やってるの!」
耳がキーンとなるくらい、渚ちゃんの母様に怒られた。まぁまぁと、翼ちゃんの母様が宥めている。
けれど、怒られたところで、私達三人はそっちに気がいかなかった。だって、気が付いたら、すごいところに来ていたのだから。
私達は、テレビで見る、ヨーロッパのお城みたいな綺麗な建物の中にいた。びっくりするほど高い天井。壁は真っ白で、丸い大きな窓の外には森が広がっていた。さっきまで東京タワーにいたはずなのに、どう考えたってここは東京じゃなかった。それをダメ押しするかのように、向こうからは外国人がやってくる。マントまでついてて、まるで王子様みたいだった。
「久しぶりに会えたと思ったら…フウ、この子達はどうしたんだ?」
「すみません、フェリオ。私達の子どもなんですが、勝手についてきてしまったようで…」
参ったな、という風にその男の人は頭を掻いた。私達が来てしまったのはどうやら困ったことらしく、眉が八の字になってしまっている。
「みちる」
母様の声に、文字通り私は跳び上がった。怒った顔はしていなかったけど、それが余計に恐い。
「父様に嘘ついて出てきたんだね」
「……ごめんなさい」
ポンポンと頭を撫でられた。父様に嘘をついたことと、母様を騙し討ちしてしまったような気持ちが途端に湧いてきて、胸がずんと重くなった。
フェリオという人の提案で、私達も母様達と一緒にお茶会に参加することになった。
お茶会をする庭へ向かう途中、色んな人に出会った。皆、物語に出てくるような不思議な恰好をしている。まるでRPGの世界に迷い込んだようだ。
この時は周りに夢中で気にもしなかったけれど、後に母様に聞くと、あそこは異世界なのだと教えられた。つまり、地球とは別の次元にあるらしい。そんな馬鹿なと思うけれど―――実際、今もまだ信じられない―――自分の体験した現実を前に、その答えを受け入れるしかなかった。
「母様、綺麗なところだね」
「そうだね。みちるがそう言ってくれると、母様も嬉しいな」
辿り着いた中庭には、既にたくさんの人が居た。中国やインドのような服を着た人、それに映画で見る未来の世界の服を着たような人もいる。
皆、母様達が来たのに気付いて喜んでいた。どうやら皆知り合いのようだ。
「ヒカル、お久しぶりです」
「イーグル! 久しぶりだね。体の方は大丈夫?」
「ええ。偶に導師クレフに診ていただいてますが、何も問題ありません」
初めに母様に声をかけたのは、朗らかな笑顔をした男の人だった。未来の世界のような服を着て、隣にとても綺麗な女の人を連れている。
その人は、母様に挨拶すると、私の方を見てにこりと笑った。
「この子がミチルですか? 瞳が貴方そっくりですね」
向こうが私を知っていたことにびっくりして、「初めまして」の言葉は裏返った蚊の鳴くような声になってしまった。
このイーグルという人と、母様はとても仲が良かったらしい。それは、後々聞かされなくても、この時の二人の様子を見ていれば良く分かった。友達とか、親友とかとはまた違うけれど、信頼し合っているのがすごく伝わってきたから。
ふと、イーグルの隣にいる女の人に目を遣った。その時は、小さく挨拶だけして後は黙っているその人が、「何だか静かな人だな」と思ったから。
女の人は女優さんのように綺麗で、でも、その目は母様に釘付けになっていた。ぎょっとするほど冷たい目だった。
きっと母様と仲が悪いんだ、関わらないようにしよう…とその時は思ったけれど、恐らくそんな単純な理由ではなかったのだと思う。視線で射殺すことができれば、と思っていたのかは知らないが、その人は、母様とイーグルが仲良くするのが心底嫌だったのだろう。それはきっと異性の問題なのだろうけれど、結局母様には訊けていない(とてもじゃないけど、訊けない)。
母様は、その人達と別れた後も、色んな人に挨拶して回った。私もついていって、一緒に挨拶した。
皆、「あの小さかったヒカルが、子どもを持つようになったなんて」と昔を懐かしんでいるようだった。
「セフィーロを見て回るか?」
そう口にしたのは、びっくりするほど背の高い男の人だった。少し恐そうな人というのが、私がその人に感じた第一印象だ。
「ごめんなさい、ランティス。クレフに相談しなくちゃいけないことがあるんだ。…あ、代わりにこの子に見せてあげてくれる?」
思ってもみないその提案に、私は内心慌てた。だって、ちっとも優しくなさそうな人なんだもの。何か粗相して怒られたりはしないかと、体が強張る。
でも母様はそんな私の様子には気付かずに、私を残して行ってしまった。
恐々と男の人を見上げると、その人はまだ母様の後ろ姿をじっと見つめていた。
話し掛け辛いし手持無沙汰だしでもじもじしていると、漸くその人は動き出した。迷ったあげくにその後ろについていく。
「精獣招喚」
ランティスという人は、剣を取り出すと(その剣も刃の部分はいきなり出てきてびっくりだったけれど)、その剣から何と馬を出してしまった。
魔法を初めて見た瞬間だった。驚きすぎて声も出ない。
「どうした、乗らないのか?」
手綱を握ってランティスはこちらを振り返る。どうしたと言われても、生まれてこのかた、普通の馬にすら乗ったことがない。自分の身長ほどもある高さの馬に乗れと言われても、どうしたら良いものか見当もつかなかった。
私が戸惑っていることに気付いて、彼は私をひょいと抱きかかえると、馬の上に乗せてくれた。「ありがとう」とお礼を言ったものの、向こうからは特に反応がなかった。
ランティスは私の後ろに跨ると、馬の腹を蹴った。
馬は廊下を走る―――かと思いきや、ふわりと浮き上がった。すぐに扉(と言っても、壁に大きく穴が開いているだけで閉じるものもなかったけど)から外へ飛び出す。
外はすぐ空の上で、びっくりして変な声が出た。お尻の下では馬の筋肉が動いているし、手すりなんて当然ないしで、いつ落ちるかとヒヤヒヤする。ジェットコースターの方がよっぽど良心的だ。
「恐いのなら、俺の服を掴んでおけ」
言われるが早いか、私はランティスのマントにしがみ付いた。
「ヒカルは、恐がったことなどなかったが」
「母様は大人だもん!」
「いや、初めて乗ったのはお前くらいの歳の頃だ」
それって何十年前? この人は一体何歳なのだろう、と思った。どう見ても、母様より年下に見える。同級生のどの父様よりも若く見えるもの。母様は童顔だけど、それでもお姉ちゃんと呼べる外見じゃない。この人は、どう見てもお兄ちゃんだ。
「景色を見に来たのだろう。ちゃんと見えているか?」
言われて初めて、自分がランティスの方ばかり見ていたことに気付いた。高さを想像したくなくて、必死に目を逸らしていたのだ。
恐る恐る見渡すと、辺り一面森のようで、地平線まで緑がいっぱいだった。お城は空に浮かんでいるし、湖はきらきらと輝いている。自然と、「すごい」という言葉が口から出ていた。
私が彼を恐がらなくなったからか、彼が私に慣れたからか、ランティスは意外とたくさんの話をしてくれた。
母様がこの世界の柱(神様のようなものらしい)になったこと。そしてそれを終わりにしてくれたこと。
こうして、新しくなったこのセフィーロを一緒に見て回ったこと。
「色んなところに行ったの? この前はどこへ行ったの?」
大した意味もない質問だが、彼は少し口を噤んだ。何か不味かっただろうかと首を傾げる。
「最後に行ったのは精霊の森だ。もうかなり前のことだが」
ランティスが言うには、母様が高校に通っていた頃の話らしい。それを最後に、母様はこの馬に乗るのをやめてしまったそうだ。
そう語るランティスの声音は、意外にも寂しそうだった。表情は少しも変わらないのに。
(ランティスは、また、母様に乗ってほしいんだ)
元々、私でなく母様を誘っていた。でも母様は断ったのだ。この人は、きっと何度もそれを繰り返していたのだろう。
そこに思い到って、急に私の心はざわざわと乱れ始めた。
その時は言葉に言い表せない不安が胸を占めるだけだったが、子どもながらに感じ取っていたのだろう。
この人は母様が好きなのだ。母様が結婚する、ずっと前から。
両親に囲まれた己の、穏やかで幸せな日常を崩すかもしれない存在なのだ、この人は。この世界は。
もし、母様がこの世界にずっと居るなんて言ったら、一瞬にして自分の世界が壊れてしまう。私の思考は無自覚の内にその出口に辿り着き、それを慌てて阻止し始めた。
「昨日の晩ごはんはね、カレーだったんだよ」
何でもいい。どんな話題でもいいから、とにかく口に出したかった。
「父様の大好物なの。母様は父様が大好きだから、いっつも、父様の好きなものばっかり作るんだよ」
両親はお互いにとても愛し合っている。それは娘である私にとっては不変的なもので、私の世界の根幹だった。ここが崩れると、自分まで崩れてしまう。
子どもが寝た後にキスをしているのを見たこと、結婚記念日に父が花を買ってくること、家族旅行をしたこと。何でも話した。纏まりもなく、時系列もめちゃくちゃで、聞くに堪えない話だったと思うが、ランティスは口を挟まずにただ黙って耳を傾けていた。
「今度のバレンタインはね、一緒にチョコレートケーキ作ろうって、母様と約束してるんだよ」
だから母様を取らないで、と、きっと私の顔には書いてあったのだろう。
ランティスは私を見つめて、ただ一言「そうか」とだけ言った。改めて見ると、頭上に広がる空と同じ、綺麗な青い瞳だった。最初に感じた恐さなど微塵もない。とても優しそうで、とても悲しそうな目だった。
正直言って、私はこの時の自分の行動を後悔している。子どもながらの残酷さで、彼を大いに傷つけた。きっとランティスは、母を父と私から奪おうなどとは考えていなかったのに。
その後は、どちらも何も言わなかった。
馬は静かに城へと引き返す。その間、私はただセフィーロの景色を見つめていた。
城へ到着すると、中庭にいた人達が集まっていた。私達が最初に来た場所だ。渚ちゃんと翼ちゃんもいる。
「みちる、楽しかった?」
母様の姿を見つけて、私は一目散に駆け寄った。顔を押し当てるようにしてぎゅっと抱きつく。いつもの匂いがした。
「ありがとう、ランティス」
「導師との話は終わったのか?」
「うん」
母様は、そっと私を押しやった。とんと背中を押されて、まだ彼にお礼を言えていないことを思い出す。気が進まなかったけれど、一応「ありがとう」と言った。目を合わせようとしない私の頭を、優しく撫でる大きな手の感触がした。
「もう、今回で最後になると思うんだ。帰るのに『道』を開いたら、次はもうきっと開かない」
私は顔を上げて母様を見た。母様は、寂しそうだけど、でも笑顔を絶やしてはいなかった。
その時になって、これはお別れの場なのだと気付いた。周りでも、渚ちゃんと翼ちゃんの母様が、色々な人に名残を惜しまれているのが見える。翼ちゃんの母様は、顔を覆って泣いていた。
「ヒカル」
気がつくと、ランティスの隣にはイーグルが立っていた。この人も、寂しそうだけれど、まだ笑顔のままだ。
「貴方にはたくさん助けていただいたのに…何も返せなくてすみません。本当にありがとうございました」
「ううん、私も、イーグルにいっぱい助けてもらったよ。ありがとう」
イーグルは一歩踏み出しかけて、代わりに右手を差し出した。母様もそれを見て握手をする。
「お元気で。あまり無茶しちゃ駄目ですよ」
「イーグルも、体を大事にしてね」
イーグルの左手が、握手をしている母様の手をそっと包み込んだ。それから名残惜しそうに離れていく。
「ランティスも、元気でね」
彼は、まだ沈んでいるような顔をしていた。先程よりもっと。
「…ここは、信じる心が力になる世界だ」
「うん、そうだね」
「お前は、誰よりも強い心の持ち主ではないのか」
「……私は…東京で、ランティスやこの世界の皆が幸せになれるよう願ってる」
ポンと肩を叩かれて振り向くと、渚ちゃんだった。彼女の母様もいる。母様もそれに気付いて頷いていた。
「今まで本当にありがとう」
さようなら、と言う母様の声は、殊更明るかった。
あの出来事より大分前―――私が生まれるよりもっと前から、いずれあの世界へ繋がる道が閉じてしまうと、母様には分かっていたらしい。
あれが最後のお別れになり、母様は、あれから東京タワーへ近づいたことはない。
こちらの世界へ戻ってきた母様は、いつもどおりの母様だった。相変わらず夫婦仲良しで、渚ちゃんや翼ちゃんの母様とも仲良しで。
子を育て上げ、老い、今では孫に頬を緩ませる―――その姿は、「普通の人」そのものだ。
「どうかしたの?」
私の子を抱っこしながら、母様は不思議そうな顔で私を見つめていた。物思いに耽りすぎたかもしれない。
何でもない、と言おうとしたけれど、思い直した。
「初恋の人って、どんな人だった?」
母様はきょとんとして、それから少し目を伏せた。遠い世界に想いを馳せる、懐かしむような、少し寂しげな目だった。
「とても、心の強い人だったよ」
2014年09月27日UP
「3人が東京で結婚し子育てしてて、ひょんなことでその子供たちが巻き込まれる。昔の初恋を、大人になってたまに思い出す」なリクを拍手でいただきました。
イー光が好きな方のリクでしたが、ラン光も入ってしまいました、すみません…。自分的にはイー光成分も入れたつもりなんですが、「入ってねー!」な感じだったら尚更すみません…。
書いててすごく面白かったです。でもやっぱり一緒に幸せになってほしい!
リクエストありがとうございました!