Polaris

この虚(うろ)を満たして

 光はランティスのことが好きだ。

 いや、正確には、これから恋心を自覚していくのだろう。家族や友人に対する愛情とは異なる感情であると悟り、甘酸っぱい気持ちを抱くのだろう。

 傍で見てきて、その予兆を目ざとく見つけた自分は、彼女の前の道を塞いだ。一つの賭けだった。受け入れられなければ、後は指を咥えて見ていることしかできない。尤も、そうなる可能性が低いとみて動いたのだが。

 扉をノックする音に顔を上げる。返事をすると、少しだけ扉が開いた。

「ヒカル!」

 こちらの部屋に漏れてきたその声を切っ掛けに、扉の動きは止まった。

「すまない、フウを見なかったか?」

「風ちゃんなら、さっきプレセアが――」

 短い遣り取りの末、片方の声は廊下の向こうへ、もう片方は扉を開けるのを再開してこちらへ。

「こんにちは、イーグル」

 にこりと笑ってやってきた光に、イーグルも笑みを返した。ベッドに腰掛けている彼のところまでやってくる。「具合はどう?」と気遣ってくれる言葉にも笑顔を返しただけで、イーグルは光の手を取った。

「今のは、フェリオ王子ですか?」

 ぴくりと、光の手が緊張で硬くなった。分かりやすい人だと思う、心の底から。

「……えっと、ごめんなさい……」

「どうして謝るんですか? 僕はただ尋ねただけですが」

 少し手を引くと、後はいつもどおり、光はベッドに腰を下ろした。喉につっかえて出てこない言葉の代わりに、彼女の表情が今の気持ちを教えてくれる。

 今「恐いですか?」と尋ねたところで、彼女はきっと否定してくるだろうけれど。

「扉の鍵をかけてきませんでしたね」

「あ、本当だ。ごめんね、ちょっと待ってて――」

「時間がありませんから」

 立ち上がろうとする彼女の手を引く。その後はいつもどおりだ。

 感情をカテゴライズするのは、案外難しいものだと思う。善意と悪意でさえない交ぜになってしまって、境界線が分からない。

 自分は彼を良い友人だと思っている。死へと向かおうとした彼を何とか止めようとしたこともある。けれど、そのために武器を向けたこともある。

 光には感謝しているし、その笑顔を見ると心が解れていくのが分かる。ただ、幸せに笑っていてほしいと願いつつ、自分の行為は彼女を傷付けているだけだった。

 失うのが恐いのだろうか?

 手を伸ばせば届く範囲にあったそれが、誰か一人のためだけのものになるのが。それならば、いっそ誰の手にも届かないようにしてしまえば良いと?

 心の中でランティスのことを想うのならば、勝手にそうすれば良い。だが、目の前にいるのは自分だ。腕の中に閉じ込めるのも、唇を重ねるのも、肌に触れるのも自分だ。

 決して拒否しようとはしない彼女の胸の内は分からない。涙こそ流したことはないけれど、きっと苦痛だろうに。

 異物感に呻く彼女の頭を撫でながら、酷い行いを繰り返す。

 こんなことをしては可哀想だ。嫌われてしまう。そう叫ぶ心と、自分勝手な欲望が満たされて満足する心が混ざり合う。

 いつものように、行為が続く。彼女の瞳が虚ろになるまで。

 後戻りしようとは考えていなかった。けれど、ふと後悔する瞬間も確かにあった。

 勝手なものだと思う。相手にしてみれば、一方的に押し付けておいて、何を今更といったところだろう。

「大丈夫か?」

 見下ろしてくる空色の瞳は、痛いほどに澄んでいた。あまり正面から見たくない。押し隠している罪悪感を引き摺り出されそうだ。それは、自分と違って彼の性根が真っ直ぐであるが故か。

 辿り着いた中庭には、眩しいほどの陽光が降り注いでいた。自分より少し先を歩いて光の下へ出たランティスの白い衣がそれを反射する。影の濃い廊下とは、まるで別世界のようだった。

 中庭には、既に人が集まり寛いでいた。その中に彼女の姿も見える。親友と他愛ない話をして笑っている彼女は、日の光の中にすんなりと溶け込んでいた。

 酷く場違いな気がして、中庭へ進むための足は一歩下がった。

「すみません、部屋で休んできます」

 意識せずとも浮かんでくる作りものの笑顔で告げると、イーグルは廊下の奥へと足を向けた。ランティスは名を呼んだが、幸い、追いかけてはこなかった。

 そのまま誰と顔を合わせることもなく、宛がわれた部屋に戻ってこれた。

 閉鎖的な空間に落ち着いて、ふっと息を吐き出す。

 異国の人間だとか、そんな問題じゃない。内面の異端さが隠し切れなかったのだ。自覚しているつもりだったが、彼らと比べて、己がいかに醜いのかをまざまざと見せつけられると、さすがに少し堪えた。

 扉にもたれ掛かっていると、その扉を向こう側から叩かれた。腰の辺りに感じる振動に、来訪者の顔を思い浮かべながら扉を開いた。

「どうかしましたか? もうすぐ皆さんとお茶会でしょう」

「だって、イーグル、具合が悪そうだってランティスが……」

 心配そうな表情は、何も取り繕っているわけではないのだろう。敵味方に関係なく、そういう心配をしてしまう人だ、この人は。彼らは。

 扉をもう少し大きく開くと、できた隙間から光は室内へと入ってきた。ゆっくりと扉を閉める。鍵をかけたりはしなかった。

「体の調子が悪いわけじゃないんです。お茶会に出る気分になれないだけで……あとで、少しは顔を出しますよ」

 その言葉に笑みを零した彼女に、こちらも微笑んでみせた。いつからか減っていってしまった、ごく普通の会話だ。

 気が付けば糸が絡み合うようにぐちゃぐちゃになっていたそれを、今からでも解くことはできるだろうか。

 切っ掛けは己なのだから、終わらせるのもこちらから始めなければ。

 まだ日の光の下が似合う彼女を、これ以上汚したくはなかった。

 そっと小さな体を抱き寄せる。離れ難いという気持ちもあるものの、意外と心は安らいだ。

「イーグル?」

 意を決して体を離すと、光は不思議そうな目でこちらを見上げていた。

「ヒカル……もう、終わりにしましょう。酷いことばかりして、すみませんでした」

 その言葉に、光はぽかんとした顔をした。

「謝って済むようなものではないです……が……」

 光の頬を伝う涙に、イーグルは言葉を途切れさせた。一粒がぽろりと落ちたのを皮切りに、次々と床に染みを作っていく。

「ヒカル」

 彼にしては珍しく、彼女のその様子に狼狽した。

 彼女が泣いてしまったからではない。涙の理由が分からなかったからだ。

 苦痛から解放された安堵感? 違う。

 身勝手な彼に対する怒りや悲しみ? それも違う。

 彼女の表情は、降りるべき梯子を外されて途方にくれたような、そんな風に見えた。

「……ヒカル、すみません。僕は――」

 その続きを否定するように、光は俯いて首を振った。彼女の顔が見えるようにと、膝をつく。涙で煌めく真紅の瞳の奥に、ぽっかりと闇が口を開けているように見えた。

「涙の理由を、教えてはいただけませんか?」

 堰を切ったように溢れる涙は、止まる様子がない。固く結ばれた唇は震えていた。

 けれど、イーグルの声に答えるように、光はほんの少し口を開いた。

「……セフィーロの皆は、優しくて……」

「はい」

「……誰も、怒ったり、責めたり、嫌な顔もしなくて……」

「それは、誰も貴方が悪いと思っていないからですよ」

 彼の言葉を否定するように、光は大きく首を振った。

「でも、大好きな人が殺されて、悲しくない人なんていないよ……」

 イーグルの脳裏に、遠い故郷で親しい人達が死に逝くのを見つめるランティスの横顔が浮かんで消えた。

 彼も、そして他の誰も、彼女達を恨んでなどいないだろう。それは光にも分かっているはずだった。

 けれど、誰にも咎められない代わりに、彼女の自責の念は行き場を失った。

 なぜ今更、とも思うが、穏やかになった今だからこそなのかもしれない。

 他国からの侵攻や、新しい制度となって忙しくしていた頃はまだ良かったのだ。一時的にでも忘れられただろうし、尽くすことは罪滅ぼしでもあったに違いない。

 限りなく優しいこの世界で、彼の理不尽を受け止めることは彼女にとっては自傷行為と同じだったのだ。

 その考えに思い至って、イーグルは脱力した。

 死に至ることではないとはいえ、こんなことを知ったら、貴方を大切に思う人達はきっと悲しむだろうに。

(心の強さって、一体何なんでしょうね)

 強ければ強いほど、弱さを見せられず、信念を曲げることもできず、やがては身を滅ぼすのか。

 心に負った傷は、傷というより、もはや穴のようだ。塞ぐには大きすぎて深すぎる。

 揃いも揃って、壊れかけだ。

 涙を拭う彼女を見ていると、一度は憑き物が落ちた心の奥に、また別の何かが入り込んだような気がした。

「ヒカル」

 壊れ物に触れるように、優しく、彼女を抱き締めた。

 ランティスへの想いに気付いた時、彼女はどうなるだろうか。それとも、薄々気付いていて、気付かないふりをしているのか。

 どちらにせよ、もう遅い。

 ここで止めてしまえば、再び行き場を失った自責の念が彼女を苛むだろう。だがこのまま続ければ、いずれは受け止めねばならない淡い恋心が彼女を押し潰すだろう。

 どう転んでも、行きつく先は大差ない。

「優しくされたいですか? それとも、苦しい方が良いですか?」

 問うたところで、返ってくる答えは既に分かっていた。ただ、それに素直に応えるつもりもなかった。

 そう考えると、ひどく心が満たされるのを感じた。

 2015年03月15日UP

 イーグル病みと見せ掛けて光ちゃんも病んでいた、なリクでした。

 全年齢対象でないと載せられないのでぼやぼやな表現で分かり辛いですが、邪な心で読んでいただくと丁度良いかもしれません。

 お叱りの声は随時受け付けてますが、お手柔らかにお願いします……。

お題配布元:「確かに恋だった」