眩しい夜に
「こんにちは、イーグル!」
この世界へ来ると、真っ先にここを訪れてくれるのだという。それを彼がどんなに嬉しく思っているのか、彼女は知らない。
まだ眠りから覚めていなかった頃から習慣化してしまったように、駆け寄ってきた彼女の手は彼の手に重ねられた。その体温を確かめるように。彼女の体温を伝えるように。
それを解くのがどれほど難しいか、彼女は知らない。
「こんにちは、ヒカル」
炎を纏った小さな手に触れたあの時から、胸の奥に灯ってしまった火は消えない。
静まり返った室内を、たった一つの灯火が照らしていた。広すぎる部屋のほとんどは夜の闇に沈んでしまい、彼の腰掛けるベッドの周囲だけがぼんやりと明るかった。
扉を叩く音が響く。顔を上げて「どうぞ」と返事をすると、陰に隠れた扉が開かれ、廊下の明かりが差し込んできた。
「おいおい、えらく暗いな」
大股に近づいてくる体躯とその声にイーグルが笑いを零していると、ジェオはイーグルと向かい合うようにしてベッドの側に置かれた椅子に腰掛けた。
「てっきり、明日の朝に来ると思ってました。早かったんですね」
「明日はいつもより開始が早いからな。遅れるわけにいかねぇし」
セフィーロの柱制度崩壊後に行われるようになった四国での会議も、明日で何度目だろうか。今ではお馴染みの面々ですっかり打ち解けあっていたが、以前では考えられない光景だった。鎖国状態だったセフィーロに集まり、その上異世界からの訪問者までいるのだから。
ジェオは腰に下げたポシェットから記憶媒体を取り出すと、イーグルに手渡した。
「病み上がりのとこ悪いが、頼む」
見舞いの品の一つがいつも仕事であることは、もうイーグルも慣れていた。
「またランティスが良い顔しないな」
「帰ったらどうせ片付けなきゃいけませんから。多少なりとも捌いておいた方が僕も楽ですよ」
イーグルは受け取ったものをサイドテーブルの灯火の横に置いた。揺らめく光を受けて、無機質なはずのそれが少し温かみがあるように見える。
「そういや、何でまた今日は明かりをつけてねえんだ? 回線でも切れたか?」
「オートザムじゃないんですから。単に、こっちの明かりを楽しみたかっただけですよ」
ジェオは顔を近付けるようにして、まじまじとその明かり――手のひらに乗る程度の小さなランプを見つめた。透明な壁の向こうで、指先ほどのサイズの火が燃えている。
「この火、本物なのか」
「本物ですよ」
「大丈夫なのか? こんなトコで使ったりして」
「平気ですよ。ちゃんと覆ってありますし、小さいですから簡単に吹き消せます」
オートザムで暮らしていると、本物の火を見る機会はほとんどなかった。生活の安全を考えれば火は恐ろしい。環境汚染のため外に逃げることが容易ではないのもあって、火事が起こらないようにと原始的な火は真っ先に遠ざけられた。
だからこそ、珍しさもあって彼はこうしているわけだけれど。
「普通は野外で使うそうですよ。もう使わないものだからとわざわざ持ってきてくれたんです」
「ヒカルか?」
「ええ」
ジジ、とランプの中から僅かな音が届いてきた。ほんの少し火が揺れる。その火の光に照らされたジェオの顔は、珍しいものを見るようにこちらに向けられていた。
「……今更だが、お前らは本当に仲が良いな。敵同士だったっつーのに」
「ヒカルはああいう子ですから」
今日だって、明日の会議に参加したいのだと親友二人と共に泊りがけでやってきた。この国だけでなく、行ったこともないオートザムのことまで気にかけてくれている。
寝る前にこれを置いていってくれたけれど、今頃は夢の中だろうか。その寝顔を想像して、知らず笑みが零れた。
ふと見ると、ジェオの目は困ったような寂しげな色を浮かべていた。「どうかしましたか?」と問うと、暫く逡巡した後にふっと嘆息する。
「なんて言やぁいいのか分からんが……お前の友人としちゃあ、俺はお前が幸せになってくれる方が嬉しいんだがな」
「幸せに見えませんか?」
ジェオは肩を竦めると、パンと膝を叩いて腰を上げた。
「明日に備えてそろそろ寝るわ。お前も、会議中に居眠りなんてしないでくれよ」
笑って「努力します」と返したものの、全く信用していないようだった。
軽く手を上げて部屋を後にする彼を見送ってから、ベッドに体を預ける。隣では、まだ静かに灯火が光り続けていた。
ジェオが何を言いたかったのか、分からないわけではない。そしてジェオも、イーグルがはぐらかしたのに気付いていないわけではないだろう。
(ずっとこのままでいられたら、きっと僕は幸せですよ)
けれどそれが叶わないのも、当然彼は分かっていた。
ここでの生活もいずれは終わる。国に帰ってしまえば、ここには中々来られないだろう。
ランティスと光と、三人の輪でずっといられたら。自分が抜けた時のことを考えると、胸の内に何かが燻るのを感じた。彼と彼女と、どちらを取られるのが嫌なのだろう。きっと、両方なのだろう。
焦がれてしまうことが分かっていたから、近付きすぎないようにと思っていたのに。今こういう想いを抱えているということは、結局、自制できていなかったらしい。
閉じた瞼の裏に、昼間に訪ねてきてくれたランティスの姿が甦った。光が来る日に限って夜通し仕事になってしまって、出掛ける前のその顔は拗ねているようでもあった。思わず笑ってしまうと、余計に機嫌を損ねたようだった。
次に浮かんできた光は、ランプに火を灯してくれているところだった。ぽつりとついた明かりに、ぱっと笑顔になる。出会った頃の印象は既に薄れていた。彼女は、剣を持たなければまだ幼い少女でしかなかった。
ふと瞼を上げると、部屋の中は真っ暗だった。ベッドの隣も闇に沈んでいる。火が消えてしまったらしい。
手探りでランプを手に取ると、火がついていた頃には僅かに感じた熱もなく、ひやりと冷たかった。いつの間にか眠ってしまっていたのか。
まだ闇に慣れていない目では、ほとんど何も見えなかった。扉の隙間から廊下の明かりが漏れているのだけが見える。イーグルはランプを手にしたまま、ゆっくりと扉の方へ向かった。扉のすぐそばに行けば、部屋の明かりを点けられる。
一歩一歩慎重に歩いて扉まで辿り着くと、彼は一時の明かりにと扉を少し開いた。
眩しく感じるほどのその光に、思わず目を細める。
何度か瞬きを繰り返す。漸く光が目に馴染んでくると、明かりの消えた廊下と、窓から外の光が差し込んできているのが分かった。
(もう夜も更けているはずなのに)
人気のない廊下に出る。窓から仰ぎ見た夜空には、一面を覆い尽くすようにたくさんの星が瞬いていた。
ずっと晴れることのない空を抱えたオートザムでは、決して見ることができない空だった。
その光に導かれるように歩き出す。静まり返った廊下に、己の足音だけが木霊する。
部屋に戻ろうとは考えていなかった。明るい夜空をもっと広い場所から眺めたいのだ。ずっと憧れていた空の、その夜の顔を。
窓から差し込む星明かりが、窓枠に切り取られ光のカーテンのように廊下の先まで続いている。眩しいほどの光の、そのすぐ隣には闇。この城も、昼とは違う顔を見せている。
外に出られるところまで来て、イーグルははたと足を止めた。
中庭の入り口、星の光を逆光にして、一人の後ろ姿が見えた。緩やかなカーブを描いた髪が、腰辺りまで届いている。
こちらの気配に気付いてか、その人物はゆっくり振り返るとイーグルを見つけて目を丸くした。
「イーグル?」
驚いた様子の彼女の方まで歩を進める。遮るもののない中庭では、夜は一層明るかった。
「こんな夜中に、どうしたんだ?」
「目が冴えてしまって。ヒカルこそ、どうしたんですか?」
「寝てたんだけど、目が覚めたら中々眠れなくなっちゃったんだ」
星明かりの下で、彼女は昼間と変わらない笑顔を見せた。
「じゃあ、僕と一緒ですね」
「一緒だね」
廊下に響かないような忍び笑いを互いに漏らすと、どちらともなく中庭へと踏み出した。
心地良い夜風が肌を撫でる。隣に立つ彼女の髪がふわりと靡いた。
「髪、結ってないんですね」
トレードマークである三つ編みがないと、大分印象が変わって見える。上着を羽織っていないのもあってか、より小柄に感じられた。
「寝る時は解いてるから――あ、それ」
光の視線が己の手元に注がれるのを見て、イーグルはずっとランプを提げていたことに気が付いた。
「うとうとしている間に、火が消えてしまったみたいで」
「蝋燭がなくなっちゃったんだね」
光は彼の手からランプを受け取ると、「これが蝋燭だよ」と、蓋を開けて底に残った乳白色の塊を指差した。言われてみれば、部屋に持ってきてもらった時には長い棒状のものだったのに、時間とともに溶けて短くなっていったような気がする。
「そういえば、新しいのを何本か持ってきてたんだった。取ってくるね」
言うが早いか駆け出そうとする彼女の手首を掴み、イーグルは慌てて引きとめた。
「いいですよ、わざわざ。今必要なものじゃありませんから」
また明日にでもという言葉に頷くと、光は今度は、中庭の方へ向けて足を進めた。
「じゃあ、もっと奥に行ってみよう」
「庭の奥ですか?」
手首を掴む手に小さな手を重ねながら引っ張られる。つられて数歩進みながらも、イーグルは眉尻を下げた。
「寝なくていいんですか?」
会議とくれば居眠りばかりしている自分が言うのもなんだが。
「私、眠れない時は思い切って体を動かすんだ。疲れた方がよく眠れるから」
一理あると、イーグルは素直に導かれた。尤も、何もなくても彼女の手を離すつもりはなかったのだけれど。
柔らかい芝と土の上に出ると、降り注がれる星明かりが思いの外はっきりと人影を作り出した。木々の緑も、辺りに咲いているだろう淡い花の色も暗く沈んでいるけれど、視界にはそれほど困らない。
「今夜は明るいですね」
色の褪せた世界はどこか寒々しくもある。手首から手のひらへと滑らせると、光はその手を握り返してきた。どちらの体温が高いとも分からない、心地良い手だった。
「空も明るいけど、ほら、何かいるみたいなんだ」
指差した先によく目を凝らすと、ふわふわと小さな光の球が浮いていた。先程も、彼女はこれを見つめていたのだろう。うっかりすると見落としてしまう程度の弱々しい光だったが、確かにそこかしこで光っている。ランプの灯火と比べると、今にも消えてしまいそうな頼りなさだ。
ゆっくり近付くとこちらの気配を察してか、その光は風に乗るように離れていってしまった。
「逃げてしまいましたね」
「イーグル、あそこ見て」
彼女の目は、球が去っていった空ではなく、地面の草むらに向けられていた。言われたとおりに目を凝らしてみると、草の間からあの弱々しい光が漏れているのが分かる。
顔を見合わせて微笑むと、息をひそめ、足音を立てないようにゆっくりと歩いていった。
今度は逃げられる様子がない。草むらの中をそっと覗き込むと、先程は分からなかったその正体が漸く分かった。
細い茎の先で、柔らかな光の球が揺れている。
「植物だったんですね」
その植物の方へと身を屈めた光につられて、イーグルも膝を折った。何をするのかと見つめていると、そっと顔を近付けて長く息を吹きかける。
彼女の起こした風に乗って、光っているそれはどこかへ飛んでいってしまった。
「やっぱり。光ってたのは綿毛だったんだね」
「綿毛、ですか?」
「えっとね……私達の世界にも、光ったりはしないけど似た植物があるんだ。綿毛の先に種がついててね、風に乗って遠くまで種を運んでいくんだよ」
その彼女の言葉を証明するかのように、一陣の強い風が吹いた。ざわざわと木の葉の擦れ合う音に包まれる。他にも草むらに潜んでいた綿毛の群れは、一斉に夜空へと舞い上がっていった。
少し驚いたように目を丸くしている光と視線を合わせる。すると、彼女は可笑しそうに破顔した。
「イーグル、頭にいっぱいくっついてる」
「ヒカルこそ、たくさん付いてますよ」
普段のように三つ編みにしているならともかく、下ろされた長い髪の間にたくさん絡まっている。イーグルはさっと払えばそれで済んだが、光の方はそうもいかなかった。
「結んでないとやっぱり不便だな……すぐ結んじゃうから、ちょっと待ってて」
「あ、やってあげますよ」
その場で腰を下ろす。背を向けた光の髪を手櫛で梳きながら、イーグルはそっと息を吐いた。
こうして二人で会えることを心の底では喜んでいるのに、たまに苦しい。
それは彼女のせいではない。きっと、自分が隠し事をしているからだ。
いつか気付かれてしまうのではと恐いのだ。今の心地良い関係を壊したくない。けれど、割り切って捨て去ることもできていない。留まりたいのも進みたいのも己の気持ちなのだから、自分でも本当はどうしたいのか分からない。
髪から外した綿毛を宙に飛ばしながら、ふと、ランティスはこうして彼女の髪を編んだことはないだろうなと思った。
(……何を考えてるんですか、僕は)
近付くまいと考えているくせに、理由を見つけてはこうして触れ、触れられても拒みすらしないのだから。その上優越感を感じるだなんて、意志の強さなど怪しいものだ。
器用に三つ編みを編み上げる指先には、夜風で冷えた髪の感触がある。癖がついてしまって緩やかなウェーブを描いた髪は、何の苦もなくいつもの形に納まってくれた。
「いつものリボン、持ってますか?」
「あ、えっとね……先に髪ゴムで留めるんだ」
ポケットの中から取り出されたそれを受け取り、尻尾のようになった三つ編みの先を留める。髪型一つ変わっただけで、昼間見る彼女の姿にかなり近付いた。
次にリボン、と差し出されたのを手に取ろうとした時、また風が吹き抜けた。二人の手の間を擦り抜けて彼女の前方へと飛んでいこうとするリボンを、イーグルは慌てて掴んだ。
「イーグル、大丈夫?」
「ええ――」
前方へ乗り出した体を戻そうとして、彼はぎくりと体を強張らせた。
近すぎる。
互いの顔が、触れ合うほどに近かった。少しひんやりした夜の空気の中で、微かに肌を掠めた彼女の吐息の温もりが嫌でも分かる。
近付きすぎてはいけないのに。胸の奥底に隠しているはずの小さな灯火が、急に揺らめいた気がした。
光が瞬きするのを間近に見て、イーグルは漸く我に返り、元の位置へと強引に体を戻した。
「……すみません」
謝罪の意味が伝わらないとしても、そう言わずにはいられなかった。
今度こそとリボンを結ぼうとしたその手が、小さな手にやんわりと止められた。
「どうして謝るんだ? 私がお礼を言わなきゃいけないのに」
こちらに向き直った彼女は、困ったように眉尻を下げていた。昼間と同じように、どこまでも真っ直ぐな視線が向けられている。
初めて視線を交わしたあの時から、見えない何かで繋がっている。取り繕おうと思っても上手くいかない何かがあるのだ。いや、そう思いたいだけなのだろうか。
「……あのね、初めて会った時……イーグルの目、とても綺麗だと思ったんだ」
その目を持つ貴方が言うのかと思いながらも、イーグルは「ありがとうございます」と微笑んだ。
「でも、悲しいそうだとも思ったんだ。あの時は、柱のことがあったから……だから、目が覚めたら、もう悲しい目じゃないかと思ってた」
「今もそんな風に見えますか?」
光は小さく頷いた。
「私、好きな人達には幸せになってほしいと思ってるんだ。イーグルにも、幸せになってほしい」
「……難しいことを言いますね」
「難しいかな?」
きっとそんなことないよ、と笑顔を向けられると辛い。自分の望むものに手を伸ばせば、彼女の幸せは壊れてしまうかもしれない。
幸せにしてみせる、なんて自信はなかった。住む世界が違う。背負っているものも多い。捨てられないものだってたくさんある。今は離れている国も、友も、失いたくないというのが本音だった。
ここは誰か一人を愛せる世界になったけれど、自分は誰か一人だけを見ているわけにはいかないのだ。それなら、他の――彼女だけを心から愛してくれる人と共に生きてもらった方がいい。
「いいんですよ、僕のことは」
「私の願いだもの。イーグルが嫌だって言っても、私は願うのをやめないよ」
「それは、中々手強いですね」
光には珍しく、少々悪戯っぽく「結構自信あるよ」と笑った。彼女は既に勝ったことがあるのだから。この国の未来を賭けた時も、彼の命を今に繋げた時も。
「私、イーグルのこと好きだよ」
「ありがとうございます」
それがどんなに純粋で素直な気持ちでも、嬉しくないわけがない。いっそ嫌いでいてくれたなら、こんなに苦しい想いをせずに済んだのに。
いや、苦しいというこの感情ですら愛おしく思っているのだと、本当は分かっていた。この気持ちを抱けただけで幸福を感じているということも。
「僕も、貴方が好きです」
なぜなのか、理由なんて分からないけれど。「ありがとう」と返してくれる笑顔には、戸惑いも恥じらいもない。分かっていた。
「でも、僕と貴方は、同じ気持ちじゃありませんから」
黙っておけばいいものを、つい、そんなことを口にした。
大人しくしていてはくれない心の灯火は、外からの風に揺らめいて形を変える。消えそうでいてそうはならずに、小さくなるかと思えば、次の瞬間には大きくなる。
自分のことは犠牲にできる。
そんな決心は幻想なのかもしれない。結局、今自分はこうして生き残っているのだから。大切なもののためになら犠牲になれるという気持ちと、ほんの少しでもと幸福に手を伸ばす気持ちは、きっといつもせめぎ合っている。
そして今は、後者が僅かに勝っただけのこと。本当は知ってほしいのだ。自分の心を。
「全く同じなんてこと、きっと誰でもないよ。でも、違うのが悪いことだとは思わない」
「そうですね。でも、貴方が傷付くかもしれませんよ」
「そうなのか?」
「試してみますか?」
手を頬に滑らせる。身構えることもなく、光はその手に手を重ねた。
「イーグルの手、私のより大きいね」
「そうですね」
「私も、大人になったらこれくらい大きくなるかな」
「多分、無理でしょうね」
不思議そうにこちらを見つめるその瞳の色は、夜の闇の中でも明るかった。
「大抵、男性の方が大きいものですから」
目を閉じて、という声は囁くように小さくなってしまったけれど、光はすぐにその明るい瞳を瞼の下に仕舞った。
初めて顔を合わせた時の驚いたような顔を、今でも覚えている。
あれからどれくらい時が流れただろう。長い間眠りについていたけれど、その間もあの顔を忘れたことはなかった。
眠っている自分に挨拶がわりに触れてくれるこの手が、いつもその姿を甦らせてくれた。
好きか嫌いかと言われれば、好きだ。
ではそれは恋なのかと言われれば、正直分からない。
だが、他の人達に感じるものと同じかというと、それも少し違うと思う。
既定の枠に当てはめてしまうのはナンセンスだとも思う。
そっと顔を寄せる。
星の光が、睫毛の影を作っているのがくっきり見える。
お互いの吐息が混じり合うまで近付いてから、イーグルは、躊躇って動きを止めた。
こうしてしまえば、もう戻れないかもしれないのに。今でも十分幸せなのに。そう言い聞かせる頭の中の声が聞こえる。けれど心はそれを受け入れる様子はなかった。
「僕は、謝りませんよ」
これは貴方の望んだ結果なのだから。それは、罪悪感から目を瞑るための免罪符かもしれなかった。
唇が触れると、光の指がぴくりと動いた。
触れた部分から何かが伝わってくる。甘い痺れが心の奥を溶かしていく。確かにあったはずの躊躇いも、罪悪感も。
再び離れた。その瞬間の彼女の表情を、自分はきっと忘れないだろう。星明かりに煌めくその瞳に映った己の顔も。
互いの本当の気持ちが分からなくても、少なくとも、今この時が幸福であるということも。
「……もうこんな時間ですから、部屋まで送ります」
腰を浮かせて、イーグルは手を差し出した。夜風に晒された手のひらが冷えていく。しかし、それも僅かな間だった。
光は目を伏せて少し考えた後、顔を上げて彼の手をとった。立ち上がった彼女のスカートを、風がふわりと撫でていく。
「えっと……じゃあ、蝋燭渡せるね」
その言葉に、なぜだか二人とも笑みを零した。
「お前が俺の話を聞いちゃくれねぇのは今に始まったことじゃないが……初っ端から居眠りするヤツがあるか」
「はあ、すみません」
締まりのない返事と顔に、ジェオは大きく溜息をついた。溜息をつきながらも、作ってきてくれたお菓子はきちんと取り分けてくれるのだから、彼は優しい。
淹れてもらったお茶から立ちのぼるいい香りが鼻孔をくすぐる。
「お茶とお菓子があれば、会議中も耐えられるんですけど」
「んなわけにいくか」
便乗して「俺は酒だなー」などと主張するザズの頭をジェオが小突く。二人の遣り取りに笑っていると、ずっと黙っていた隣の人物が口を開いた。
「眠れなかったのか?」
澄んだ空の色の瞳を持つ彼が何を考えているのか。その心の中までは、イーグルにも分からなかった。
魔法を操るのに長けた人々は、人の気が分かるというが。一体どこまで分かるものなのだろうか。
「そうですね」
ティーカップに口をつけ、唇を湿らせる。
「昨夜は、少し眩しすぎたみたいです」
いつもと変わらないイーグルの笑顔から、ランティスは目を逸らした。彼の視線の先を追う。
友人と笑っている彼女の、リボンをつけ忘れた長い三つ編みが揺れていた。
2016年04月30日UP
アンソロジー用に書いたものの没にしたものです。