Polaris

innocence

 世の中に表と裏があるように、この家の中にも表と裏がある。

 両方を行き来する者と、表の世界だけで生きてゆく者。

「にいさま、おかえりなさい!」

 アンダーグラウンドから帰ってきて一番に飛び込んできたのは、何も知らない妹の笑顔だった。

 一人目の母は死んだ。物心がつく前だったので、彼自身、何も覚えていない。ただ、裏の世界で死に追いやられたのだということは知らされていた。

 そういうわけで、幼い頃にある日突然やってきた新しい母が、彼にとっては唯一の母親とも言える。それは、特に嘆くことでもなかった。血の繋がりはなくとも、写真で見た産みの親と笑顔が似ていたから。

「ねぇ、にいさま。おべんきょうって、どこでやってるの?」

 そして、母と同じく、この妹とも血の繋がりはなかった。この家にやってきた当時は乳飲み子だった彼女は、そんなことは知りもしないだろう。十年後か二十年後か…分別のつく年頃になった時、突然知らされるのかもしれない。

 しかし、二人は本当の兄妹のように笑ったところがそっくりで、何も知らない周囲の人間は疑いもしなかった。本当の兄妹にしては、いささか仲が良すぎたが。

「ヒミツ」

 妹と同じ笑顔でにこっと笑った彼に、逆に少女はぷくっと頬を膨らませた。

 本当の母親は、裏の世界に関わらなければ死ぬことなどなかった。それは明確な事実なのだから、父は当然、今の妻には裏のことを何も告げていない。気付いているのかもしれないが、彼女も何も言わなかった。秘密にすることが、相手への愛であることもある。

 そして、表も裏も継ぐ必要のないこの妹も、何も知らなかった。兄が時々裏の勉強のためにどこかへ出掛けるのを不思議がることはあっても、まだ幼い彼女が推測できるようなことではない。

 この妹は、きっと死ぬまでこの家の裏の顔を知ることはないだろう。まだ幼いイーグルにとっても、それは安堵すべきことだった。

 なんとなしに積み上げていた積み木が、不用意に触れた手によってガラガラと崩れ去っていった。

 もうすぐ、一年の変わり目がやってくる。浮かれ始めた街の様子に、祭りが近いのだということを感じる。

 表でこの都市最大の祭りが行われる時、裏でもチェストーナメントという名の祭りが行われる。街中に溢れる人がどちらを目的としているのか…少なくとも、表だけで生きる人間は知る由もない。

 そして、その祭りの始まりと同時に、イーグルの学生生活も終わりを告げることになっていた。

 学生の間も、彼は表の事業、そして裏の仕事をこなしていたのだが、これからは当主としてそれを行っていくのだ。学生としての時間がなくなるだけ余裕が出てくるのか、それとも当主としての重みを苦しい程に感じることになるのか。それは、彼にもまだわからないことだった。

「不安なのか?」

 頬杖をついていたイーグルは、ランティスの声で視線をそちらへ向けた。

 ティーカップがソーサーに触れ、かちゃりと音を出す。

「多少は不安ですよ。でも、しばらくは父が補佐につきますし」

 まだ若いイーグルに、何もかもを突然押し付けるわけではない。父もまだ十分働ける歳だが、何かあった時のため、早くから当主として息子に学ばせようとしているのだろう。そして、その手始めがチェストーナメントである。窓の外の祭りの雰囲気は、否が応でも、彼にそのことを考えさせる要因となっていた。

 人工的な美しさを誇る観光都市が次第に夕陽色に染まってゆく。その光景を再び瞳に映し、イーグルはぽつりと呟いた。

「そろそろ、彼女を起こさないと」

「…また眠っているのか?」

 そっとランティスは眉をひそめたが、イーグルは取り合わなかった。彼と議論したところで、何も変わらない。

 表と裏の顔を持つイーグルとは違い、妹のヒカルは表の世界だけで育った。イーグルが失いつつある無邪気な笑顔を、彼女はまだ失っていない。母や妹と関わっている時だけ、彼は表の穏やかな世界を感じることができた。

 ただ、健康的に育ったにも関わらず、ここ数年、ヒカルは病的に眠るようになった。体は丈夫だし、運動自体は彼女も好むところだというのに、深く抗いがたい眠りに誘われ、時には立っていてもふらりと体が揺らぐことがあった。

 それをあまり良く思っていないのか、それとも、たびたび起こしにいかされるのが自分だからなのか、ランティスはこの話題ではいつも難しい顔をする。普段表情の乏しい彼にしては、珍しいことだった。

「夕食の時間はきっちり守らないと。起こしてきてくれますよね?」

「お前が行けばいいだろう」

「あなたのほうが、ヒカルはすっきり起きてくれるんですよ」

 それに、イーグルが行けば、ミイラ獲りがミイラになりかねない。仕方なく、ランティスは立ち上がった。

「ランティス」

 ドアノブにかかったランティスの手が止まる。

「ヒカルは…ヒカルには、『普通に生きている』男性と、幸せになってほしいと思っているんです」

「…ああ」

 音もせずに扉が閉まり、室内は、僅かに届く外からの喧騒のみとなる。

(ただ、祭りが始まるまでは、このままで)

 目を伏せて、遠い記憶に思いを寄せる。

 二人で遊んだ日々も、兄として慕ってくれる女性に感じた気持ちも、もうすぐ自分の片腕として働くことになる男に寄せる彼女の想いも。これを節目に、終わりにしよう…させようと、ひっそりと心に誓った。

 まだ朝陽が昇る前。部屋に明かりをつけ、彼は礼服に袖を通していた。

 顔は洗ったものの、やはりまだ眠い。夕方までは表で仕事をし、その後は夜通し祭りを見守らなければならない。もう少し早く眠れば良かったと、彼は内心後悔していた。

 そんな中、控えめなノックが耳へと届く。朝の静まり返った空間では、それは特別な音に聞こえた。

 予定よりは少し早いが、今日から双璧として自分の隣にいることになる彼らのどちらかだろうかと思い、何の躊躇いもなしに「どうぞ」と声をかける。しかし、扉の向こうから現れた人物が予想外で、彼は無防備に驚いた顔を晒してしまった。

「おはよう、イーグル兄様」

 ゆったりとしたワンピースの寝巻きの上からカーディガンを羽織った姿で、髪も結っていない妹が立っていた。

「ヒカル…起きて、大丈夫なんですか?」

 その問いには答えずにヒカルは朗らかに笑うと、静かに兄の傍に寄った。

「だって、今日はもう帰ってこないって言ってたから」

 昨夜、お祝いとして、家族の中でちょっとしたパーティーを行った。その中で、今日は忙しいから家には帰らないと、確かに彼女に告げたのだが、まさか、朝会えるとは思ってもみなかった。

 昼夜関係なく睡魔に襲われる彼女は、今も少しふらふらしているようだった。時々、焦点が合わなくなって瞳から光が消える。それでも、彼女は自分の意志でそこに立っていた。

「おめでとう、兄様。お仕事大変だと思うけど、頑張ってね」

 無邪気な微笑みを向けてから、そっと背伸びをする。

 幼い頃の自分達が頭の中に蘇る中で、控えめな口付けが彼の頬へと落とされた。

 大人達の真似ごとがしたくて、いってきます、おかえりなさいの時に、お互いにキスをした。恥じらいも遠慮もなく、可愛らしい音と一緒に。けれど、大人になった彼女のキスは、朝の澄んだ空間の中で、何の音も伝えはしなかった。

「やっぱり、大きくなるとちょっと恥ずかしいね」

 そう言って照れる彼女がいとおしくて、幼い頃と同じように、彼も頬へと口付ける。

 ふわふわとした髪の感触を、自分の頬に感じる。そして、自分とは違う育ち方をした女性としての肌を唇に感じて、不意に心臓が大きく脈打った。

 このまま離れることができなくなってしまうのではないか…そう感じたにも関わらず、あっさりと離れてしまう。

「それでは…行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 そうして、あの頃から変わらない笑顔に見送られて、彼は家を後にした。

 夜の帳が降り、盤上は煌々とライトに照らされている。

 何度も見てきたその白と黒の世界は、今になって初めて、彼に裏の顔を見せていた。

 立ち上がろうとしたところを、傍にいた父に制される。

 試合はまだ始まっていない。だが、後は合図を待つのみ。腰掛けている二人のマスターに、鎖に繋がれている駒達。その中で、落ち着きなく、鎖を外そうと身を捩じらせている者がいた。

「おい…あいつ、様子が変じゃないか?」

 躊躇いなく口に出したのはジェオだ。級友として知り合った彼は、イーグルの家族とは、父を除けば面識がない。彼の目には、ただの不審な女として、イーグルの妹の姿が映っていた。

 長い間培ってきた、常に冷静に判断できる頭が、今はぐるぐると様々な思考で渦巻いている。

 朝は、確かに自分の傍にいたのに。いつもと変わらない様子だったのに。あんなに幸せそうだったのに。なぜ彼女があの場にいて、あんなに怯えているのか。

「もしかしなくても、無理矢理…」

 ジェオに言われずとも、イーグルにはそれはわかりきったことだった。彼女は優しい。時には生易しいと感じてしまうくらい、誰に対しても優しいのだ。好んでこのような所へ来る人間ではない。

「強制での参加は、ルール違反ですよね?」

 その言葉は、父に向けられたものだった。裏の情報が表に出ることはまずい。したがって、こういったゲームは、その危険性や様々なルールが同意の上で行われる。表の人間を無理に参加させるなどということは、容易に情報を漏らすようなものだ。

 その人間が死なない限りは。

「強制だと断定はできない」

 口を開きかけたイーグルを、父は睨みを利かせて抑えこむ。そして、モニターを見上げた。

「それに、これはアンダーグラウンドのゲームだ。多少のことは、見て見ぬ振りをしろ」

 それはジェオに向けての言葉なのか、それともイーグルに向けたものなのか。父を凝視しているイーグルを、ランティスはじっと見つめていた。

 モニターの向こうが、しんと静まり返った。

 審判が手を上げている。合図が始まる。

「すみません…少し、お手洗いに」

 苦しい言い訳も中途半端に投げ出し、イーグルは部屋の出口を目指して駆け出した。それに続いて、ランティスとジェオが走り出す。

 部屋を飛び出すと同時に、無意味に大きな試合開始の声が聞こえた。

 膨大な量の彼女の笑顔に被さるようにして、先程のモニター越しに見た妹の姿が蘇る。鎖に束縛されたその小さな手に握られた一振りの剣。たしなみ程度の彼女は、それでどれ程持ち堪えられるだろう。自分が向こうに着くのに、どれ程の時間がかかるだろう。

「待て、イーグル!」

 直に盤上が見える観客席が道の向こうに見え始めたところで、声の主に腕を捕らえられた。そして、それを通り越してランティスが道の終わりへと駆けてゆく。

「こんな時に外へ行くなんて、危険だってわかってるだろ!」

 ジェオの言葉も、目の前でランティスが誰かを取り押さえている光景も、今はどうでもよかった。五月蝿い程の試合終了の合図に比べれば。

 耳障りな観客の声。解説者の声。

「初仕事のこの時を狙う奴は多いって、親父さんに散々言われただろ」

 目にせずとも、どのような結果かはおのずとわかる。見なければ信じられないが、見たくはないという思いもある。ただ、想像はしてしまう。白と黒の空間に流れる、彼女の髪の色。誇らしいほどに美しいと思っていたその色が、じんわりと人の目に晒されてゆく様子。

「……そうですね。僕は、裏の人間ですから」

 ただ、悲しいことに、こんな時でも涙の一粒も零れはしなかった。

 ランティスが捕らえた男は何も喋ろうとはしなかったが、それは問題ではなかった。彼女の中から発見された大量の薬が特殊なものだったので、すぐに足が付いたのだ。表の世界でも見え隠れする、大人の事情。金の動き。

「薬を盛っていたのは主治医だそうだ」

「そうですか」

 戦いと解剖で見るに堪えない姿となってしまったため、葬儀は行われなかった。表の世界では、彼女は病死ということになっている。

「病の治療法をちらつかせて脅迫するつもりだったらしい」

「…へぇ」

 喪に服しはしたが、死んだのだという実感がわかない。その内、扉を開けてひょっこり現れるのではないか…そんな気がしてしまう。

「だが、それは難しいだろうということで、あのような形を取ったそうだ」

「……あなたは、どうしてそんな話をしているんですか?」

 イーグルがやっと合わせた男の目は、揺らぐことなく彼を見つめ返していた。

「事実は事実として受け止めなければならないと思うからだ」

 事実は事実として。

 頭の中では、当然理解できている。彼女は死んだのだと、イーグルも知っている。大人の好む、無機質な価値のために利用されたのだということも。ランティスも、現実逃避するほどイーグルが愚かではないとわかっている。しかし、そう言わずにはいられなかった。

 生活する上で、今の彼には特に問題はない。塞ぎ込むこともなく、仕事はきっちりとこなしている。常に笑顔で、表の世界では人望も厚い。何をするにも傍観しているというだけで。そのことだけが、どこか心に引っかかるのだ。

 ただ、自分やジェオの前ではまだ素直な方だと、ランティスは感じていたのだが。

「あちらの開発は、どれくらい進んでいますか?」

 今までの会話などまるでなかったかのように、イーグルは唐突に話題を変えた。

「…駒にするには、まだ早いだろう」

 ビジョン家の事業の一つとして、機械人形の開発が挙げられる。表では生活を補助するための便利なもの。しかし裏では、それは暗殺やチェスの駒としての利用価値しかない。

 そして、最近になって始まった特殊な能力を持った人形の開発に、イーグルは僅かに興味を示していた。こうして、時々ランティスやジェオに尋ねる程度だったが。

「駒にならなくてもいいんです。殺しはできるんでしょう?」

「…あれは、暗殺用にはならない」

 その返事ににっこりと笑みを返すイーグルに、ランティスはそっと息を吐いた。

 結局、その人形が誰かを殺めることはなかったが。

 時の流れとは恐ろしく、心の傷にも瘡蓋をはってしまう。

 殺めはしないものの人を傷つけ続ける機械人形を、イーグルはじっと見下ろしていた。姿形を似せて作ったというのに、やはり、どこかが違う。それは髪を短くして作ったからか、それとも今は目を閉じているからか、周りの機械の音が邪魔なのか。考えてみるものの、彼には案外どうでもいいことだった。

「噂であったとおり、他の次元で同一人物と思われる人間を発見したそうです」

 やっとのことで完成した、次元を渡る機械人形。イーグルの視線は、今度はそちらに動いた。

 技術の発達というのは目覚しく、この人形は、触れた感触なども人間そっくりにできている。先程まで見ていた人形は、どうしても無機質な感じがしてしまうのだが。

 未知の世界に思いを馳せるのは、人の欲求として自然なことだ。珍しいこの人形に興味を示すことも。しかし、感心しきりのジェオとは真逆に、イーグルには何の感動もなかった。

「魂が同じ、というのは聞いたことがありますが」

 イーグルが反応したことに、研究者は慌てたように資料をめくる。

「はい。報告によると、姿や性格はほとんど変わらず、別の人生を歩んでいるだけと言える…ということです」

 異世界にいる同一人物。

「一度、会ってみたいですね」

「…誰にだ」

 素早く反応したランティスに、イーグルは笑みを返す。

 叶わない願いほど、人は望むものだ。

 会いたい…そんなシンプルなことだとしても。

 久しぶりに脳裏に浮かんだ彼女は、あの日と同じように、何も知らずに笑っていた。

 2007年06月17日(日記では2007年03月25日)UP

 ツバサのインフィニティ編が落ち着いたので改めてUPします。

 結局最後まで光ちゃんは出てこなかった…。

 ちなみに、「innocence」は無邪気とか無垢とかそういう意味で使ってます。