Polaris

泣いても変わらない

 激しい音を立てて雨が降る夜だった。今のセフィーロでは珍しいことでもなく、ここ最近は雨も少なかったので木々にも良いだろうとランティスは思ったくらいのものだった。

 ただ、窓に打ち付ける雨音で眠れない。雨の中外に出るわけにもいかず、彼の足は自然と親友の部屋へと向かった。

 彼の予想通り、夜も更けたがまだ親友の部屋からは明かりが漏れている。軽くノックをして扉に手をかけたが、激しい雨音が親友の部屋の中まで満たしていることは失念していた。

 部屋の主は、ノックの音ではなく扉の動きでランティスの来訪に気付いたらしく、ランティスを見るとその目が少し驚いたように見開かれた。

 自分は今、この扉を開いてはいけなかったのだと思い知る。

 イーグルの腕の中にいる光は、肩を震わせたまま後ろに気付く様子はない。

 雨の音は、少女の嗚咽さえも打ち消していた。

「おはよう、ランティス!」

 駆け寄ってきた少女は、朝の鈍い光の中でいつもどおりに見えた。

 昨日、「今日はこっちにお泊りなんだ」と嬉しそうに告げていた光と、少しも違わない。寝ぼけて見た夢かと疑ってしまうほど、夜中のあの後姿だけが異質だった。

「イーグルのところへ行くのか?」

「ううん、まだ朝早いから。海ちゃんと風ちゃんがもう食堂に行っちゃったみたいだから、今から追いかけるんだ」

 昨夜はいつ頃眠りにつけたのだろう。少し目元が赤い気もするが、一見すると寝不足という風にも見えない。また後で、と元気いっぱいに手を振って駆けていく光は、ランティスの目にはやはり普段と同じ姿に映る。

 結局は、直接確かめた方が早いのだ。

 昨夜よりはやや強めにノックをして、ランティスは扉を開いた。返事はなかったが、今は問題ないだろう。

 夜とは違って日の光が部屋中に差し込む明るい室内で、イーグルは寝台に横になっていた。この間までずっとその姿だったものだからそれは見慣れた光景で、ランティスも当然のようにその枕元に立った。

「……僕が本当に眠っていたら、そうしてずっと待っているんですか?」

 寝顔、に見せかけていた口元が動き、琥珀色の瞳がランティスを捕らえる。面白がっているようにも見えるが、そうして誤魔化そうとしているようにも見えた。

「訊きたいことがある」

 分かってます、とイーグルは溜息混じりに体を起こした。彼としても、ランティスが来ることは予測していたのだろう。イーグルは大きく欠伸をすると、にっこり微笑んで―――それは大抵、何かある時にするイーグルの癖だった。隠したいことがある時、彼は必要以上に微笑むことで誤魔化そうとする―――ランティスに向き合った。

「それで、何ですか?」

 分かっているくせにわざわざそう言っているのだ。それは、上手く尋ねなければ知らぬ存ぜぬを貫かれるということ。ランティスが眉根を寄せても、イーグルの笑みはぴくりとも動かなかった。

「…ヒカルが、夜中に来ていただろう」

「ええ」

「……何の話をしていた」

「秘密です」

 ランティスの表情がさらに険しいものになったのを見て、イーグルは重ねて「秘密です」と言い切った。

「理由は?」

「理由…ですか? 僕とヒカルの二人で話した内容だからですよ」

 貴方に報告する義理もないでしょう、と続けるイーグルは、手近にあったテーブルの上から、一つの包みを手繰り寄せた。封を開けた途端に、ランティスの方まで甘い香りが漂ってくる。朝食前に菓子を食べるのはいかがなものかとは思ったが、ランティスとてこれで話を終わらせるつもりはない。長丁場になるなら、勝手に腹を満たしてくれた方が都合が良い。

「泣いていただろう」

「そうですね。珍しいことでもないでしょう? 貴方が泣いていたら大事件ですが」

 珍しいか珍しくないかと問われれば、ランティスであれば「珍しい」と答える。ランティスは、光が泣いた所は一度しか見たことがなかったし、泣いていると言っても昨夜のようにではない。少し涙を零した程度だった。

 ならばイーグルは? ランティスが考えているより、彼は見ているのだろうか。珍しいことではないと言えるほどに。

 何も表に出すまいとする顔とは逆に、胸の奥がちりちりする。我ながら小さな男だと思う。つまり、自分は妬いているのだ。泣く時に、体を預ける相手が自分ではなく親友だったことに。

「ランティスは、人を殺したことがありますか?」

 あまりに唐突すぎるその問いに、ランティスは目を丸くした。

 菓子を頬張りながら、まるで今日の天気を尋ねるような口調だった。部屋の壁、ではなく、どこか遠くへと焦点を合わせたイーグルの目のふちが、少し赤いように見える。彼もあまり眠れていないのだ。

「死なせてしまったとか、間接的な意味ではなく…直接その手で、です」

 ランティスは答えなかった。イーグルもそれ以上待たなかった。答えがないのが答えだと、彼には分かっている。

「僕はあります。軍人ですからね」

 ランティスが出会った時、イーグルは既に軍の上層部にいた。それ故に、そこに至るまでの間にイーグルがどんな任務をこなしていたのか、ランティスは知らない。ただ、大規模な事件や災害があれば軍が動くという話だけは聞いていた。

「何度かありますが…一度、テロリストを撃ったことがあります」

 イーグルの手が銃を形作る。セフィーロには存在しない武器の形のそれを片手で作り、もう片方が添えられる。

「傍にいる人質に当てないように。怪我だけさせて暴れられないように。一度で済ませるために、慎重に狙いを定めて撃ちました」

 それは物語のようで、全く現実味がなかった。

「任務を遂行した時、僕が何を思ったかわかりますか? 『やった』と思ったんですよ。達成感すらありました」

 その口元が、苦々しげに歪んだ。自嘲しているようでもあった。

「最低だと思いますか?」

 被害を最小限に抑えられ、昇進にも繋がった。同僚や上司からも称賛の言葉を貰う。軍人は、国を、民を守るために存在するのだ。自分がやったのは正しいことだ。

 そんな昂揚感が消えないうちに、テロリストの親族と顔を合わせた。

 あの人を止めてくれてありがとうございます。そんな風に―――イーグルが手を下したと分かっていたわけではなく、軍人の一人に対して言ったようだが―――感謝を述べつつも、目に浮かんでいた涙は悲しみからだった。

 どんな人間にも過去がある。親の愛情を受けた幼少期。友人と歩んだ学生時代。伴侶となる人との出会い。相手がどんな人間でも、どこかで必ず誰かに愛されているのだと。

「そんなことも分からずに、僕は人を殺して喜んでしまったんですよ」

 親友の顔からは、その時の苦悩の色は窺い知れない。もう消化してしまったことなのか。いや、そもそも消化できることなのか、ランティスには分からない。

「引き金を引く時の汗ばんだ指先も、撃った瞬間の反動も、全部覚えてます。…でも、普段は忘れてるんですよ。そんなことばかり四六時中考えてると、おかしくなりますからね。見たくない現実ほど、簡単に意識の外へ放り投げられるんですから、人間って上手にできてます」

 イーグルにしては珍しく、とつとつと語った。

 イーグルは、自分の感情を言葉で表現しない。それは、ランティスや、ジェオに対してでさえそうだった。彼は今、自分の弱さを知ってもらうためにこの話をしているのではないと、ランティスもとうに分かっていた。

 秘密と言ったのに、ランティスに答えを教えてくれたのだ。

 だが、はたして聞けて良かったのかどうか。ただ、先程とは違い、胸の奥は何かを飲み込んだようにずしりと重かった。

 繰り返し謝罪の言葉を吐く彼女の背中を撫でながら、窓の外を眺めた。光の頬に、そしてイーグルの服にも伝っていく涙に負けず劣らず、窓に雨の雫が次々と跡をつけていく。

 イーグルから見れば―――そして恐らく、ランティスも同じだろうが―――魔法騎士は被害者だった。突然異世界に放り込まれ、元の世界に戻る術は一つだけ。けれど、光にしてみれば、己こそが加害者なのだ。

「泣いても何も変わらないって分かってるんだ。でも…」

 イーグルの胸に額を押し付ける光の表情は分からない。分からなくて良かったとも思う。

 誰が死ぬところも見たくない―――無茶をしてでもイーグルをこちらの世界へ連れ帰ってきた光の心にあるのは、単純な理想論ではなかった。イーグルには自殺行為にすら思えたが、ああすることで、逆に光は己の心を殺さずに済んだのだ。

「あの時の自分が、本当に嫌いなんだ。なんて酷いこと考えてたんだろうって」

「ヒカル」

 光とて分かっている。柱への道の破壊を願ったランティスが、魔法騎士を恨んでなどいないことは。だが、頭では分かっていても、感情が邪魔をする。

 光の心は強い。けれど、イーグルや、エメロード姫と違う答えを出した彼女の心が、特別異なるわけではない。紙一重なのだ。自分に何かあれば、たった一人でも悲しむ人がいるという、ただそれだけ。

「ヒカル、僕は貴方が好きですよ」

 今の話を聞いても。だから、僕を助けてくれた時の気持ちを忘れないでください。まだこの世界には、貴方を大切に想う人間がいる。

「泣いていいんです。何も変わらなくたって、いくらでも泣いてください」

 腕に力を込めると、彼女の震えが伝わってきた。

「それに…変わらないのは、過去だけです。今もこれからも、泣くことで変わる何かがきっとありますよ」

 僕の気持ちのように。そして、泣くことで貴方の心が少しでも軽くなってくれればいい。

 同じ経験をしてしまった海と風には言えないのだろう。言えば、記憶の奥に押し込んでいたものを引っ張り出すことになる。

「いつでも、何度でも。僕でよければ、こうさせてください」

 光が、服をぎゅっと掴んだ。涙の峠を少し越えたようだった。

 二人の間に、踏み忘れたステップがある。すぐそこに見えているのに、見ないふりをしているのだ。

 そうしている限り、二人はこれ以上先へは進めない。

 イーグルにはそれがよく分かったが、ランティスがどう考えているのかは分からなかった。

 光に胸を貸したのはあれが初めてではなかった。理由を告げられずにただ受け止めただけの日も多かった。

 泣いても過去は変えられない。けれど、彼女の心は変わっていく。それを受け止めるイーグルの心も変わっていく。

「貴方が将来、今の自分に泣かないことを願います」

 その時にはもう遅い。

 誰かの意志を汲み取って、この世界は動いている。

 窓の外、セフィーロは雨上がりの澄んだ空をしていた。

 2014年05月30日UP

 ラン光の中で一番重い課題はやっぱりこれだと思います。