Polaris

一度だけ……

 初めの頃、この部屋にはベッドしかなかった。

 けれどしばらくすると、お見舞いの品などが少しずつ溜まっていったのだ。

 目が覚めてからはさらにお見舞いの品が増え、その上仕事に必要な物が運び込まれるようになる。するとそこには、いつしか生活感と呼べるものが漂っていた。

 イーグルは衣類を畳む手を止め、視界の隅に映ったそれを手に取った。

 紙製の小さな赤い箱。フタを開けると、ほんの少しだけ甘い残り香が届いてきた。二人の少女と一緒にお菓子を作ったのだと、彼女は嬉しそうな顔をして二つの箱を抱えてここへやってきた。

 一つはランティスへ、もう一つは彼の元へ。

 もう大分前の話だが、イーグルはまだ空になった箱を大切に置いていた。「珍しい模様ですから」と、すぐに見透かされそうな嘘までついて。

 赤い色は、出会ったその瞬間から彼女の色だ。赤い魔神、赤い瞳、赤い髪、赤い血も。すぐに色んな気持ちを思い出させてくれるこの色を、当然、彼は自分の国へ持って帰るつもりだった。

 厚い扉を叩く音に、イーグルは箱から顔を上げる。

 小さな手では、小さな音が限界だ。何度も聞きなれたそのノックに、イーグルは箱をベッドの上に置いて扉の方へと向かった。

「こんばんは、ヒカル」

 笑顔と共に「どうぞ」と促して、招き入れる。

「こんな時間にごめんね」

「いえ、わざわざありがとうございます」

 制服姿の光は、学生鞄や竹刀を抱えていた。学校から直接訪れてくれたのだろう。

「でも夜が更けるのは早いですから、あまり長居はできませんね」

「お泊りするって言ってきたから大丈夫だよ。海ちゃんと風ちゃんもいるし。夕ご飯も、こっちでご馳走になっちゃった」

 壁に鞄と竹刀を立てかけ、光は部屋の中を見回した。ベッドの傍に雑然と物が積み重なり、大きなトランクが口を開けて荷物を詰め込まれるのを待っている。

「本当に…明日、帰っちゃうんだね」

「ええ」

 その寂しそうな表情に、奇妙な気分になる。自分も寂しいという思いと、寂しいと感じてくれることを喜んでいる気持ち。

「でも…でも、イーグルが元気になってよかった!」

 そう言って笑ってみせたその顔にはどこか無理をしたところがあって、さらにもやもやとした気分になってしまう。しかしイーグルのそんな内心は露とも知らない彼女は、すぐに荷物を手に取った。

「いつの間にか、荷物いっぱいになっちゃったね。トランク足りるかな?」

「大きな物はそのままでも運べますから…あ、そこの書類をお願いします」

 自分は中断していた衣類の整理を再開する。

 せっせと紙の束を整えていく彼女を見遣りながら、別れの準備は淡々と進んでいった。

 最後のトランクに鍵をかけると、二人同時に大きく息を吐いた。

 ここには時計がないが、随分時間がかかったように感じる。部屋の外を行き交う物音は何一つなく、しんと静まり返った城内はまるで誰一人いないかのようだった。

「終わったね」

「お茶を淹れますから、そこに掛けていてください」

「うん」

 身の軽い光がベッドに腰掛けると、代わりに何かがコトリと音を立てて床に落ちた。

「あ、これ…」

「しまうのを忘れてしまいましたね」

 光は、小さな赤い箱を拾い上げた。

「クッキーをあげたんだっけ。何だか懐かしいな」

 思い出されるのは、三者三様の喜び方。プレゼントできることに喜ぶ光と、解り難い表情の中に喜びを滲ませていたランティス。自分自身はというと、いつもどおりの笑顔を浮かべていたように思う。心の内にあるドロドロとした思いを抑えこんで。

 素直に嬉しいとは思えなかった。所詮はランティスと同等で、「特別な一人」ではない。今は治療という目的で居座っている自分がここを去ったとき、きっと同等ですらなくなってしまうのだろう。そんな風に考えてしまうことに嫌悪する気持ちもあったが、嫌悪したところで、そんな風に思ってしまったことは確かだ。自分にしかわからないことだとしても。

「私、海ちゃんみたいにお菓子作り上手じゃないから…たくさん作ろうと思ったのに、二人にあげる分しか成功しなかったんだ」

「もし一人分しか出来なかったら、誰にあげたんですか?」

 気がつけば口を出ていたその問いに、案の定光はきょとんとしてしまった。

 イーグル自身も自分の言葉に驚いていたものの、当然それは表には出さない。ただ、故郷へ帰る前に諦められるのならそれもいいかもしれないと思った。この気持ちをずるずると引っ張っていくよりも。

「もし一人分だったら、きっとイーグルにあげたと思う」

 何も知らないその笑顔に、きつく胸が締め付けられた。

「だって、イーグルの方が甘い物好きだし…それに、いっぱい食べたら早く元気になれるでしょ?」

 それはいかにも彼女らしい裏のない理由で、たとえ誰が問うたところで言うことは同じなのだろう。だから余計に苦しくなる。諦めがつけばよかったものを、淡い期待を生んでしまうのだから。

「早く元気になって…でも僕は、会えなくなるのは嫌です」

 嫌だなどと、まるで子どものようだと内心で苦笑する。しかし一度零れ出すと、止めるのは難しいものだった。

「私も、会えなくなるのは寂しいけど…」

「そんなことありませんよ」

 否定される理由がわからず、光は戸惑った表情を見せる。見つめる先のイーグルがどこか苦しそうで、それがさらに彼女を混乱させていた。

「で、でも! 私、イーグルのこと大好きだし、オートザムに帰っちゃったらあんまり会えないし…」

「僕も、あなたのことが好きです」

 些細な言葉に心を乱されてしまうほど。

 出会った時からそうだった。彼女の一言が、一挙手一投足が自分を翻弄する。普段は誰も踏み込めないような心の奥まですんなりと来てしまう。

 今も、自分の言動を一々先まで考えていられる余裕がなかった。

「でも、あなたの『好き』と僕の『好き』は、違うものですから」

 怖い。

 自分がいない間に流れていくセフィーロでの時間が。知らないところで今の関係が終わってしまうのが。

 今まで、彼は自分自身を見つめつつ目標とするものを目指してきた。目標は見えるところ、手の届くところにあったのだ。その分努力も惜しまなかったし、無茶かそうでないかは判断できた。セフィーロの柱になることでさえ、己の努力や病を考慮した上で可能だと判断したからこそ、軍を動かしてまで目指したのだ。

 ただ、やはり人の心というのはどうにもならないもので。誰が誰を一番想っているかなんて目には見えないし、自分が彼女を誰よりも想っていたとしても、彼女が同じように想ってくれるかといえば決してそうではない。報われるとは限らない。

「違うって…どうして違うんだ?」

 光は、まだ恋だの愛だのということには疎い。全くの無知というわけではないだろう。例えば、身近に存在する恋人達がどういう関係であるかは分かる。二人の仲に入って邪魔してはいけない、と気を利かせることはできる。けれど、自分自身がそういう関係を誰かと持つ―――というのは想像すらしないところにあるようだ。他人から想われるなどと思ってもみない。

(それなら、知ってもらえばいい)

 時間がない。この一瞬が勿体ない。どこで邪魔が入るかわからない。

 いつもは簡単に押し込んでみせる我侭な部分が急かしてくる。

「試してみましょうか」

 二人の『好き』が同じものなのか、違うものなのか。

「どうやって…?」

「…嫌なら嫌と言ってください。それで終わりますから」

 一度だけだと、自分に言い聞かせる。こんな我侭はこれきりだ。しかし我侭と分かってはいても、思い直そうなどとは思えないところまですでに来ていた。

 並んで腰掛ける光の体を抱き寄せる。いつもより慎重に。もしかしたら最後かもしれないと思うと、指の先まで過敏になっていった。

 硬く縮こまった小柄な体から、普段とは違うよそよそしさを感じる。無防備に身を預けてはこない。背中に回された小さな手は、不安げにぎゅっと服を握り締めていた。

 しんと静まり返ったその空間は、まるで時が止まってくれたかのように錯覚させた。柔らかな温もりに、僅かな罪悪感すら忘れてしまいそうになる。

 柔らかなベッドは、音を立てずに光の背中を受け入れていた。

 覆い被さるイーグルの影の中で、光の唇が微かに動いた。不安げに瞳は揺れているものの、ここに来てもまだ事態が上手く飲み込めていないようだった。

(すみません。こんなこと…)

 彼女がもう少し聡ければ、自分の傷は浅くて済んだかもしれない。彼女も、こんな怖い目を見ずに済んだかもしれない。

(でも僕は、貴女を愛しているんです)

 紅い瞳の下に、さっと赤みが差した。けれど心の声が届いてしまったことにイーグルは気付かずに、そっと距離を詰めていった。

 布越しに、胸元を飾る大きなリボンが触れる。さらさらと、前髪が交じり合う。

 ぎゅっと目を瞑った光の顔を、イーグルは触れそうな距離で見つめ続けた。

 震える睫毛。瞬く間に染まっていく頬。きゅっと結ばれた唇。独占欲が満たされていくのとは逆に、後ろめたさはみるみる内に消えていく。嫌だと拒否されたところで、本当に終わりに出来るのかは分からなかった。

 唇に吐息を感じて、光の体がぴくりと動いた。そして次の瞬間には、唇がそっと重ねられていた。

 一度だけだ。今回だけだ。そんな風に頭の中で誰かが言い聞かせてきて、それでも我侭な自分はそっと角度を変えた。啄ばまれて、光が拳を固くする。重ねるだけがキスだとでも思っていたのかもしれない。

 もう一度角度を変えると、熱い吐息が漏れて頬にかかった。

 一度だけ。もう一度。あと一度。呼吸すら忘れてしまいそうになるほどに、幾度も幾度も口付ける。やっと顔を上げた時には、お互い息が荒くなってしまっていた。

 熱に浮かされているかのような潤んだ瞳が、それでも自分を見つめてくれていた。濡れた唇から、名前を呼ぶ消え入るような声が聞こえる。

(このまま、溺れてしまいたい)

 もう一度、と顔を近づけた時、恐ろしいほどに静まり返っていた室内に無機質な音が響いてきた。

 二人視線を合わせたままで、ぴたりと動きが止まる。息を潜める。

 光のノックの音と同じくらいに聞き慣れてしまったその力強い音に、扉の向こうに誰が来たのかわかってしまう。途端に甦ってきた罪悪感で、イーグルは心臓が早鐘のように鳴り出したのを感じ取った。

 ランティスと光は、別に付き合っているわけではない。自分にそう言い聞かせても、後ろめたさは一向に去ろうとしなかった。かと言って、体を起こそうと動く気にもなれない。

 罪悪感と目の前の甘い誘惑に、頭がくらくらしてくる。部屋には誰もいない、そう思ってランティスが黙って去ってくれればいい…そんな願いを裏切るかのように、もう一度ノックの音が部屋に響いた。

 何が最良なのかと考えを巡らせていた時、光の口が動いた。

 何を言おうとしたのかは分からない。ランティスに向けてなのか、イーグルに向けてなのかも分からない。反射的にその口は塞がれてしまって、一言も喉の奥から漏れ出ることはなかった。

 さらに強く抱きしめて、まるで逃げるかのように深く深く口付けていく。強ばった小さな体から、少しずつ力が抜けていく。それでもゆるゆるともがいていた足が、先程無造作に置いた赤い箱を転がした。

 思いのほか大きな音を立ててそれは床へと落ちたけれど、二人はそれに気付かない。

 三度目のノックはなかった。

 2007年12月30日UP

 寸止めにしようかとも思ったものの、それはもう書いていたので、たまには思い切りイー光で。