縋りたい、縋られたい
鼻先すら見えないほどの濃い闇の中だった。
足を踏み出すと、ガラガラと乾いた音を立てながら足が深く沈みこんでいく。無理矢理に歩を進めると、足元を埋め尽くすそれは静まり返った周囲に彼女の存在を知らしめた。
丸いものに足を取られて、光は派手に転んだ。体のあちこちにごつごつとそれはぶつかってくる。全身が沈んでしまいそうになる度に、彼女は這い上がろうと必死にもがいた。
ここから早く出たい。
辺りに広がるそれが何か、目に見えなくても彼女はとうに気付いていた。だがそれを認めたが最後、己の気が狂ってしまうだろうことも分かっていた。だから、分からないふりをしてここから逃げ出すほか、彼女には選択肢などなかったのだ。
また何かに足を取られて、光は大きな音を立てて倒れ込んだ。怖いなどと言ってはおれず、埋め尽くすそれに手をつきながら上体を起こす。取られた方の足を踏み出そうとして――しかし、どう足掻いてもその足は前へ進んでくれなかった。
何かの予感に、心臓が煩く鳴り出した。止まってしまう前に、少しでも多く動いておきたいとでも言うように。
知りたくはないはずなのに、光の手は、そろそろと動かない方の足首に触れた。
さらりとした感触。
糸のように細く、けれど滑らかで、柔らかいその感触。
さっと全身の肌が粟立ったのも束の間、その手に、ひやりと冷たい何かが重ねられた。
「これが、あの時――私の心の臓を貫いた手」
するりと背後から忍び寄ってきたその気配。触れられたその部分からまるで凍て付いてしまったように、体は全く動かなくなってしまった。彼女の心臓だけが、相変わらず煩いほどに脈打っている。
「幸せになれる方法があるのなら、どうして教えてくださらなかったの?」
耳元で囁かれたその声に、四方八方から縋りついてくる肉のない手に、彼女は自分の喉が裂けるほどの声を上げた。
目を見開くと、そこは、夢の中と変わらぬ闇の中だった。
体を受け止めてくれているのは柔らかなベッドだ。体を打つ骨の山ではない。だが、眠る前には心地良さを感じていたはずのそれは、纏わりつく感覚が縋りつかれた時のものと似ている気がして、光はすぐに上掛けを引き剥がした。
あれは夢だ。落ち着け。
心の中で何度言い聞かせても、体の震えは止まらなかった。夢の中で叫んだ分だけ、現実では、喉元がつっかえて声が出ない。
その場に留まっていられなくて、光はベッドを飛び下りると遮二無二部屋を飛び出した。
セフィーロ城の廊下は、闇に沈んだ夜の顔を見せていた。今日に限って雲が空を覆っているのか、星の明かりすら届かない。どの部屋からも明かりが漏れている様子はなく、彼女の立てる足音以外は何も聞こえない。
どこへ行こうというあてがあるわけではなかった。ただ、立ち止まりたくなかったのだ。たった一人でじっと闇の中にいるのが恐ろしかった。
今は何時だろう。朝日が昇るまで、一体どれくらい時間がかかるのだろうか。
足を止めたが最後、またあの夢に引き摺り込まれそうな気がして、光はもう何も考えられずに動いているだけだった。
だから、勢いよくぶつかるまで、前方に人がいたことに全く気付かなかった。
肩をしっかり押さえられたので鼻を打つには至らなかったが、勢いのまま懐に飛び込んでしまって彼女は驚いて顔を上げた。
「何をしているんですか、こんな夜中に」
その声に、光は漸く全身に込められていた力を抜いた。まだ息は荒いままだったが、肩から伝わってくる温もりに、少しずつ寒気が落ち着いてくる。ほとんど何も見えないものの、光はイーグルの顔があるであろう辺りに視線を注いだ。
「……ごめんなさい、えっと……もしかして、起こしちゃったのか?」
「僕は元々起きてましたから。でも、いくらなんでも足音を響かせすぎです。他の方が起きていないといいですが」
いつもの優しさの中にも非難の色が混じるその声音に、やっと目が覚めた。気が動転していたとはいえ、周りを見失いすぎたのだ。
「ごめんなさい……音立てないようにして、気を付けて戻るよ」
踵を返そうとしたものの、イーグルは光の手を取った。何も見えないのは彼も同じはずなのに、驚くほどの正確さだった。
黙って手を引かれていくと、一つだけ明かりの漏れている扉があった。イーグルが開いた途端に溢れた光の眩しさに、彼女は思わず目を細めた。
目が慣れてくると、いつものイーグルの部屋の中だった。ベッドのそばでディスプレイに何かが映し出されている。仕事を途中で放り出したような様子だった。
こちらに振り向いたイーグルを見上げる。金色の瞳は、怒っているとも悲しんでいるとも言えなかった。
「そんな様子で、一人で部屋に戻ってどうするんです。そんな、真っ青な顔で」
そう言われて、繋がれていない方の手で自分の顔に触ってみた。汗でべとべとしている。
「ちょっと変な夢を見ちゃっただけなんだ。寝ぼけちゃって……だから、もう大丈夫だよ」
「その言葉で、僕が納得すると思ってるんですか?」
するわけないでしょうと強い口調で言われてしまい、光は口を噤んだ。
再び大人しく手を引かれる。辿り着いたのは洗面所だった。
「そのままじゃ風邪をひきます。これと」
差し出されたのはバスタオルだった。反射的に受け取る。
「これを。サイズが合わないのは我慢してください」
有無を言わせぬ雰囲気に、光は黙って服も受け取った。「ちゃんと温まるまで出しませんよ」と釘を刺されてしまい、彼女は大人しくシャワーを浴び始めた。
一人で部屋に戻ったところで、きっと自分は体を温めも着替えもしないだろう。そこまでお見通しならば、黙って従う他なかった。
温まった体を新しい衣服で包むと、漸く夢から醒めたように思えた。今真っ暗な廊下に出たとしても、先程のような恐怖はもうないだろう。……部屋に戻るのは、まだ少し抵抗があったが。
(ただの夢なのに。イーグルの言うとおり、誰も起こしてないといいけど……)
だが誰も起こしていなくても、既に彼には迷惑をかけている。起きていたにしても、静かに仕事をしているのを邪魔してしまったのだから。
身支度を整えて洗面所を出ると、部屋の中は先程と違う匂いがした。
「顔色、少し戻りましたね」
そう声をかけてきたイーグルはいつもの笑みを浮かべていて、光はほっとして肩の力を抜いた。彼が差し出してきたマグカップを受け取る。マグカップからはいい匂いと共に湯気が立ち上っていた。
並んでベッドに腰掛ける。マグカップに口をつけると、温かくて少し甘かった。いつも飲む紅茶とは違うようだ。
「眠れなくなることはありませんから。気にせず飲んで大丈夫ですよ」
同じようにマグカップを傾けながら、イーグルはそばにあったディスプレイを閉じた。
「あの、でも……お仕事の邪魔してごめんなさい。飲み終わったら、すぐに帰るよ」
「帰ってどうするんです? 今までのように、城中歩いて回るんですか?」
否定する言葉が見つからず、光は何も言い返せなかった。
「前回も、その前も……これで何度目ですか。もう随分前からでしょう。僕が、まだ眠っていた頃から」
そこまで知られているのか。もしかしなくても、自分は相当煩かったのだろうか。
「ごめんなさい。あの――」
「それは、何に対して謝ってるんですか?」
「夜中に煩かったと思うから。イーグルのことも、きっと起こしちゃったんだよね」
「そんなこと、どうだっていいんです」
「……でも、イーグル……怒ってる」
「ええ、怒ってます」
俯きそうになった光の頬を捕えて、イーグルは無理矢理前を向かせた。金色の瞳は鋭い。心の奥底まで覗かれているような気がした。
「何も言わない貴方に怒っているんです。あの時……周囲のためにも、自分の幸福を求めるべきだと言った貴方のしていることだから、怒っているんです。まさか、貴方一人だけ例外だとでも?」
「ううん、でも――」
「貴方は、僕やエメロード姫よりできた人間なんですか?」
「違う! そんなこと絶対ない!」
思わず大きな声が出た。自分の声が、部屋の壁にぶつかって消えていく。それが治まると、再びその場には静寂が降りてきた。
イーグルが向ける瞳は、あの時自分が彼に向けたものと同じなのだ。
悲しみと、やりきれない想いと、そして僅かな怒りも。なぜ抱え込んでしまうのか。周囲には、貴方を愛している人達がいるのに。目の前に自分がいるのに。手を出してくれさえすれば、いくらでもその手を取るのに。
自分は辛かったのに、その辛さを自分が与える側になってしまっているのだと気付くと、目の前にある彼の顔が歪んできた。瞬きすると、目のふちから雫が落ちていく。
「でも、私……皆に言えなくて……」
言えば、皆悲しい顔をするだろう。愛する人を失ったことを、奪ってしまったことを思い出すだろう。
大好きな人達には笑顔でいてほしい。その願いを、自分の手で壊すようなことはしたくなかった。
「その気持ちは分かります。でも、悲しい出来事を思い出すのと、貴方が壊れるのと……どちらの方が辛いか、分かるでしょう」
「……壊れたりしないよ……ただの夢だもの」
まだそんなことを言って、と、イーグルは困ったように溜息をついた。
「ヒカル。僕は、あの出来事には直接関わりがない人間です。だから、貴方の話を聞いたところで辛い思い出が甦るわけでもない。溜まったものを吐き出す相手としては、丁度良いと思いますよ」
「私……イーグルのこと、丁度良いなんて思ってないよ」
「ありがとうございます」
可笑しそうに少し笑うと、その指が涙を拭ってくれた。
二人揃って、喉を潤す。少し冷めていたけれど、胃の中を通っていくと中から温かくなるのが分かった。
「どんな夢を見るんですか?」
「えっと……いつも同じってわけじゃないんだ。色んなのを見るんだけど」
「今日は?」
「……エメロード姫が、出てくる夢……」
ぽつぽつと、纏まりきらないそれを口に出していった。
死屍累々の中彷徨ったこと。あれは、朽ち果てたかつての柱達だ。そしてエメロード姫の言葉。
本物のエメロード姫は、きっとあのようなことは言わないだろう。あれは彼女の言葉ではない。自分の中に燻っている、自分の言葉だ。
かつての柱達は、魔法騎士を招喚しようとしまいと、決して幸福なだけではいられなかっただろう。ただ一人を愛することを許されず、この国を一番に愛しながらこの世を去っていったのだ。それなのに、自分だけ、柱になったにも関わらず幸せになってしまった。
「貴方の後に生まれるはずだった柱はその責務から逃れられたんです。それでいいでしょう」
「分かってるんだ、分かってるんだけど」
頭では理解していても、気持ちは中々ついていかない。それが罪悪感からなのも分かっていた。
もっと早く、伝説の真実に気付いていれば。柱制度をなくせば助かるのだと、エメロード姫に伝えることができていたら。
何も考えていなかったあの時の自分に言えたらいいのに。過去を遡ることなどできないと分かっていても、そう思わずにはいられない。
自分は人の命を奪ったのだ。たとえそれが望まれてだとしても、何の罪もないその命をこの手が奪ったのだ。その事実は決して変わらない。後悔してもしきれない。終わりがない。
あの瞬間から、自分が別の人間になってしまったようだった。取り返しのつかないことをしてしまって、もう元には戻れない。
マグカップの中に雫が落ちていくのに気付いて、光は慌ててそれを近くのテーブルに置いた。空いた両手で目元を拭う。次々溢れてくるものだから、あまり意味はなかった。
「ヒカルは、自分の手は嫌いですか?」
返答に困っていると、イーグルは涙の膜の向こう側で微笑んだようだった。二人の手のひらを合わせる。彼女自身のものより、大きな手だった。
「では、僕の手はどうですか?」
「えっと……好きだよ。優しい手だと思う」
「でも、僕の手も貴方の手と大して変わりませんよ」
その言葉の意味するところに思い至り、何も言えなかった。それは、こうしている限りでは到底想像できないことだった。今のこの場は、あまりに平和すぎる。
「貴方と違って、僕はそれを承知した上でこの仕事に就いたわけですけど。ジェオも、他の人も皆そうです。でも、覚悟を決めていても、最後には自分の心に押し潰されて去っていった人達もたくさん見てきました。一人で抱え込み、けれど消化しきれずに、結局は周りを悲しませるんです。どんなに強い人にだって限界がある。長い間この国を支えていたエメロード姫でもそうだったんですから。だから、困っているのなら、この手を取ってください。以前僕がそうしたように。今度は、ヒカルの番というだけです」
お互い様なのだから。
それは、今の彼女にとっては天から降りてきた一本の蜘蛛の糸に等しかった。起こしてしまった問題は解決しない。けれど、縋りつかずにはいられない。
優しく手を握ってくれるのに応えるように、光も手に少し力を込めた。
「……あのね、私、夢の続きを見るのが恐いんだ」
「それで、いつも部屋に戻らなかったんですね」
光は小さく頷いた。気のせいだと分かっていても、まだ部屋の中に夢の気配が充満しているような気がして、入る気にも、ましてやあのベッドに横になる気にもなれないのだ。
「夢をどうにかするのはさすがに無理ですけど、このベッド使ってください。人のを使うと、案外平気だったりするんですよ」
僕もよくジェオのを使って怒られるんです、と言われると、呆れ半分で咎めているいつものジェオの顔が思い浮かんで、二人とも少し笑った。
「でも、イーグルはどうするんだ?」
「どうせ今夜は徹夜の予定でしたから。どうしても眠くなったら、隣にお邪魔させてもらいますよ」
上掛けを捲って促されると、光はもう遠慮も抵抗もやめて横になった。
再び光り出したディスプレイの代わりに、部屋の明かりが落ちた。暗い中でも、ぼんやりとイーグルの姿が浮かんでいる。
「眩しくないですか?」
「平気だよ」
闇の中に浮かんだイーグルは、いつもの柔らかな笑みを浮かべていた。もう怒っていない。
優しく頭を撫でてくれるのにあわせて、光は目を閉じた。何も見えなくなっても、もう恐くはなかった。すぐそばにいてくれるのが分かる。
まだ漂っている紅茶の香りと、自分を包んでくれるベッドに残ったイーグルの気配を感じる。
「僕も、貴方の手が好きですよ」
まどろむ中で、彼の優しい声が聞こえた。
2015年08月15日UP
「泣いても変わらない」をランティス視点で書いたものの、光ちゃん視点だと書けたのになーと思っていた部分が多くて書いてみたんですが、今度はイーグル視点で書き足りないという。
イーグルとしては、眠っている頃から光ちゃんの状況を察してはいたけど自分動けないし……みたいなじれったいのが今回漸くどうにかなった、的な感じです(あとがきで説明するのはどうなんだ)。
一応、お互い恋愛感情なし前提で書いてます。それなのに人の服着てベッドで寝てていいのかって感じですけど、そこはこの二人だし、ということで。