Polaris

惹かれてしまった僅かな狂い

 大きな円卓に、珍しい料理の数々。そして、瓶の中で光る色とりどりの飲み物。

 久しぶりの再会に、四つの国から集った人々は和気あいあいと食事をしている。

「お酒は久しぶりですね」

 手にしたグラスを傾けると、中の液体は不思議な様子を持って光を反射する。柔らかで、とても鮮やかな色だ。

 目が覚めてからも酒は控えていたけれど、さすがに今日は大丈夫だと思って、思い切って注いでもらった。ランティスも、今回は何も言わなかった。

「ヒカルのそれも、お酒ですか?」

「ううん、これはジュースだよ」

 隣に座っている彼女が手に持っているものも、鮮やかな色をしている。ヒカルはそれを、すでに半分ほど喉に通してしまっていた。

「ランティスもですか?」

 ヒカルの向こう側に座っているランティスのものは、無色透明だ。

「これはただの水だ」

 それを聞いて、僕も、ヒカルも笑う。お酒は駄目。甘いジュースも駄目。そんなランティスを知っているからだ。

 憧れていた豊かな緑と健康な体。

 一度は失ったと思っていた親友。

 そのランティスと僕の間に座ってくれているヒカル。

 それは、幸せの構図だった。

 霞がかったような世界で、どこかから声が聞こえる。近いような、遠いような。

「イーグル、起きて。風邪ひいちゃうから…」

 久しぶりのお酒で、酔ったまま眠ってしまったんでしょうか…それとも、異国のお酒は体に合わなかったんでしょうか…。

「イーグル」

 両肩に添えてくれる小さな手の感触を感じる。

 その体温に導かれるように、重い瞼が半分ほど上がった。

 目の前に広がる彼女の顔。本物の彼女も、こんな顔でしたっけ。自分の願望が強くて、こんな風に見えるだけなのかもしれない。

 思っていたよりも長い睫毛。その下でこちらを覗き込んでくれる真紅の瞳。ほんのりと染まっている滑らかな頬。小さな唇。

「ね、部屋に―――」

 優しい声を、親指で止めた。手のひらと残りの指に、柔らかな頬の感触と、温かな体温。

 親指を唇の上で滑らせる。ヒカルは不思議そうな顔をしたまま、親指から解放された唇で言葉を紡ぐ。

「どうしたの?」

 今日はやけにしゃべってくれるな、と思った。夢の中でどれだけ望んでも、いつも、名前を呼ぶことしかしてくれない。

 それに、いつもは、手を伸ばした時点で煙のように消えてしまう。だからこそ、今日こそは、逃がしてしまいたくない。

 空いている手で、細い腰を抱き寄せる。さすがに驚いたのか、両肩に添えられていた小さな両手で、体を離そうとする。けれど、頬に添えていた手で顎を捕らえると、距離は一層近くなった。

「イ、イーグルっ」

 火がついたように顔を赤くする。余計に、手放すものかと力を込めてしまう。

 いいじゃないですか。夢の中でくらい…好きにさせてください。いくらランティスに魔法が使えても、人の夢を覗くなんてことはできないんだから…。

 ―――――夢?

 自分の唇に彼女の吐息がかかった瞬間、体中が熱くなるのと同時に、頭の中だけが水をかぶったかのように冷え切った。

 見開いた途端、視界ははっきりと、くっきりと映る。

 目をぎゅっと瞑っているヒカルの顔が確認できた。震えている長い睫毛が、赤みが差した頬に影を落としている。そんな細かいところまで、はっきりと。

 恐る恐ると顎から手を離し、内心の動揺を必死になって取り繕う。

「…虫が、ついてますよ」

 そう言って、見えもしない虫を彼女の髪から拾い、潰してみせた。

 力を緩めると、腕の中から、するするとヒカルの腰が逃げていく。

「あ、ありがとう」

 僕の嘘を本気で信じてくれたのか、それとも健気に合わせてくれているのか。

「恐がらせちゃいけないと思ったんですよ。…すみません」

 俯きながら、席を立つ。困惑気味のヒカルの顔が、視界の隅に映る。

「あ、イーグル…!」

 戸惑った声が呼んでくれたけれど、僕は、賑やかなその場から慌てて離れていった。

 セフィーロの人々が自分にと貸してくれたその部屋は、なんだか今の自分には不似合いだと感じる。

 汚れを知らないその白いベッドに乱暴に体を横たえると、火照っているのか冷え切っているのかわからない頭をシーツに埋めた。

 宴もたけなわだったあの場で、何人が見ていただろう…ランティスは見ていたんだろうか…。

 ヒカルはきっと、ひどく困っているに違いない。僕にそういう対象に見られていると、彼女は思いも寄らないだろうから…。

 まだ彼女の感触が残る両手で拳を作り、頭痛のように響く荒い鼓動に耐えた。

 ノックもなしにドアが開いた。ズカズカと大股に近づいてくるその様子に、相手が誰かはすぐわかる。

「おい、イーグル」

 焦ったような怒ったようなジェオの声に、不意に笑いがこみ上げてきた。

「おはようございます」

「あのなぁ…」

 僕がベッドに座り直すと、ジェオは傍にあった椅子にドカッと腰掛けた。

「何か御用ですか?」

「まぁ、なんだ…その…」

 言葉に詰まってしまう彼を見ていると、次第に脈も穏やかなものに戻っていく。酒も大分抜けたように感じた。

 仕事中でもないのに面倒見が良い彼に、この際甘えてしまおうと決める。

「あなた以外に、誰が見てました?」

「…ランティスは、見てた」

 眠ってくれてればありがたかったんですが…世の中うまくいかないものですね。

「酒飲んでた連中は自分の世界に入ってるやつばっかだったから、後は魔法騎士のお嬢ちゃんと、導師クレフと、タトラ姫と…」

「そんなに、ですか」

 それとも、口が軽くない人達であったことを喜ぶべきなんでしょうか、この場合。

「…驚きました?」

「ちっとな」

「何だか、ある程度予想していたようにも見えますけど」

 驚いて困惑しているというよりは、ついに来たか、という風に見える。

「お前は、そりゃ、ここ何年かは『恋愛にはこりごり』って顔してたからな。それなのに、あのお嬢ちゃんには結構べったりだったし。オートザムでのお前を知ってりゃ、何となくわかるだろ。他の連中がどう見てるのかは知らんが」

 そう言われれば、そうなのかもしれない。この国に来てからは割と普通に女性と話していたけれど、それ以前は自分から避けていたような気がする。

「……ヒカルは、どうしてました?」

 妙に堅苦しい声に、すぐに拙かったと思った。しかし、ジェオはそのことには気付かないふりをした。

「もう夜も遅いから、部屋に戻った方がいいって言って、後は他のお嬢ちゃん二人に任せた。ていうか、いくらお嬢ちゃん相手でも、『虫』はないだろ」

 僕もそう思います。

 いくらヒカルだって、あれで気付かないわけはない。

「やっぱり、はぐらかせませんよね」

「はぐらかすのか?そりゃ無理だろ。この際はっきり言っちまえ。はぐらかさなきゃならん理由もないし」

「ありますよ」

 ないのなら、夢の中だけで我慢したりはしない。

「ランティスは、ヒカルが好きなんです。…僕がまだ眠っていた頃から」

 まだここに来て間もない頃のことを思い出す。わざわざここに来てくれるヒカルに、その彼女に会いに来るランティスに、眠ったままの自分。あの頃から二人は変わっていない。自分だけが変わってしまったような気がする。もう戻れないところまで。

「付き合ってるわけじゃないんだろ? だったら、お前が遠慮する必要はない」

「…そうかも、しれませんね」

 ジェオが言いたいことはわかる。けれど、人間なんて、そう簡単に割り切れるものじゃないんですよ。

 ランティスに幸せになってほしい。

 ヒカルにも、幸せになってほしい。

 それなら、自分のこの想いは、このまま墓場まで…そう思っていたのに、この始末。心のどこかで諦めきれていなかったから、こんなことになってしまった。

 できることなら、夢を見る前まで戻りたい。そんな不可能なことを考えてしまうなんて、自分は本当に参ってしまっているんだと思った。

 その日は、とても長い夢を見ました。

 実際、丸一日を眠って過ごしていたんですが…。

 真っ暗で何も見えないというのに、瞼の向こうには太陽の光。

 一人で眠っているのに、なぜか感じる人の気配。

 じっと見つめてくれている。見守ってくれている。見られているというのに緊張もせずにそう感じさせてくれる人間は、僕には数えるほどしかいない。

「決めるのは、俺でもお前でもない」

 夢の中の彼の言葉は、何だかわけがわからない。現実でも、時々はそうですけど。

 耳の奥によみがえる、鳥の声と、木の葉の擦れ合う音。背中合わせになってその一時を楽しんでいたのが、今では遠い想い出のようで。

 地に茂る草の音が聞こえたかと思うと、次に届くのはあなたの声で。

「イーグル」

 その笑顔に、自然と笑みが零れてしまう。相手との関係を保つわけでも、自分の心の内を隠すためでもなく、単に頬が緩んで出た笑顔。

 あの日のように、何の後ろめたい気持ちもなく、三人一緒に穏やかな時が過ごせるでしょうか。

「イーグル…」

 いつもの夢のように、もっと名前を呼んでください。何だか、自分の名前を忘れてしまいそうになるから。

「また、三人で、お茶しようね」

 その声がなんだか心細い響きをしていて、わけもわからずに、目尻が熱くなったような気がした。

 しかし、次第に深く暗い眠りの中に落ちていく中で、そんな感情も薄らいできてしまう。

 けれど、その声だけは、どこまでも僕についてきた。

 ――――あなたがそう言ってくれるのなら、僕は、ずっとあなたの隣にいたい。

 2007年03月18日UP

 イーグル×光も好きです。