Polaris

楽園

 艶のある真っ赤な林檎が、籠の中に10個は入っていた。

「こんなに持ってくるの、大変だったんじゃない?」

 長い髪をさらりと纏めてエプロンのリボンを結んだ海は、同じくエプロンを着た風を見遣った。その風の後ろから、新たな籠を携えた人間が一人二人とやってくる。

「展望台まで家の者に手伝っていただいたので。さすがに、一籠で結構な重さですから」

「こんなにたくさん、私達で貰っていいの?」

「家にはまだまだたくさんあるんです。皆さんに召し上がっていただいた方が助かりますわ」

 これだけあって、「まだまだたくさん」ってどれだけよ…と目を丸くする海に、風は困ったように微笑んだ。

「これで最後みたいだよ」

 アスコットが、これまたどっさりと林檎の詰まった籠を置いた。最終的に籠は10個。林檎の数を考えるとくらくらしそうである。

「お仕事中ですのに、ありがとうございます、アスコットさん」

「ううん、ウミ達で運んだら大変だもん。通り掛かって良かったよ」

 この厨房までどう林檎を運ぼうかと算段していた時、偶然通り掛かったのはアスコットを始めとする魔導師の人々だった。指導を受けるため、導師クレフの元へ向かっていた途中だったらしい。

「訓練が終わる頃には出来るだろうから、差し入れするわね。いつもの場所でやるのよね?」

「ウミのお菓子を!? きっと皆喜ぶよ、ありがとう!」

 人一倍嬉しいのはきっとアスコットだが、それは誰にも触れられず、ウキウキしたままアスコットは出ていった。

「あら、本当にすごい量ね!」

 入れ替わりで厨房に入ってきたのは、光に連れられたプレセアとカルディナだ。

「お菓子を作るて聞いたけど、これ全部使うんかいな」

「流石にそれは無理かしら…ま、林檎はしばらく腐らないし、今日食べれる分だけでも作っちゃいましょ」

「何作るの? 海ちゃん」

 林檎と言えばアップルパイ、焼き林檎…くらいしか、光には思い付かない。しかし、そこはお菓子作りに長けた海。任せて! と頼もしく胸を叩いてみせた。

「林檎ってことは風に教えてもらってたから、ばっちり調べてきてるわよ。さすがにこんな量とは思わなかったけど」

 海が持参した方の袋には、これまたどっさりとお菓子の材料が入っていた。小麦粉に砂糖にバターはもちろん、ゼラチンや寒天まで入っている。

 今日はセフィーロの人々は仕事中ということで、朝のこの時間から手が借りられるのはプレセアとカルディナだけだった。カルディナの踊り子としての仕事は大抵日が沈んでからで、チゼータに用向きが無ければこの時間は大抵空いている。

「ああ、私はいいのよ。どうせ行き詰まってたし、気分転換に手伝わせて」

 プレセアはというと、仕事はあるものの創作意欲は湧かず、うんうん唸っていたところに光が呼びにきて渡りに船だったらしい。

 そうして集まった彼女らは、海の指示のもと林檎に手を出していった。一籠分の林檎は皮のまま洗われ、もう一籠はとりあえず皮を剥かれ、その横では小麦粉がふるわれる。

「チキュウのお菓子は面白いわね。色々食べさせてもらったけど、たくさん種類があるんだもの。どれも本当に美味しいし」

「地球には約200の国がありますから、その数だけ食文化もあるんです」

 彼女達でも、知らないお菓子はまだまだ存在するのだという。スケールが違うわと、カルディナは首を振った。

「光、結構器用に剥くのね」

 海に言われて、光は得意げにえへへ、と笑った。

「林檎だけなんだけどね、昔練習したことがあって」

 包丁はそのままに、林檎をくるくる回す。一本になった赤い皮は、渦を巻くような加減で調理台におりていった。

「その調子でどんどん剥いちゃってね、今日はたっくさん作るんだから」

「でも、剥いてしまうのも勿体無いわね。こんなに綺麗な色なのに」

 皮をつけたまま丁寧に洗っていたプレセアは、水滴を弾く林檎を手のひらで転がした。どこも見事に真っ赤に染まり、水に濡れればより艶々している。

「あら、そっちの林檎は皮も使うわよ。煮出すと良い色が出るの」

「林檎の赤は不思議な色だと思いますわ。地球では、林檎が人を誘惑する果実として登場する物語もいくつかありますし」

「それはええコト聞いたなぁ…んっふっふっふ」

 怪しげな笑いをするカルディナを、プレセアがたしなめる。まだまだ大人になりきれてない少女達の前で、迂闊な言動は止めてほしかった。

「この様子ですと、この国でも林檎のせいで何かが起こってしまうかもしれませんね」

「重力発見くらいにしといてほしいわ、私としては。食べた皆に何かあっちゃ、収集つかないもの」

 肩を竦めて、海は卵をボウルに落とした。

 パイにシャーベット、ケーキにゼリー…惜しげもなく林檎を使ったお菓子の数々に、集まった人々は舌鼓を打っていた。海の希望が叶ったのかどうか、彼女が指揮をとって作り上げられた物を食べても、誰にも何も起こらなかったようだ。

「この赤い果実がリンゴというものですか。これがこんなに美味しいお菓子になるんですねぇ」

 左手に生の林檎を一つ、右手にはフォークに突き刺した林檎ケーキという姿のイーグルは、にっこり微笑んでケーキを口に運んだ。見ているだけで胸焼けを起こしそうなランティスは、その親友の様子を眉を顰めて見ている。

「ランティスはお菓子無理だし、余ってる林檎剥いてあげるね」

 余ってる…というほど可愛らしい量ではない林檎を抱えて、光は皮剥きを開始した。赤い皮の下から、白い身が姿を現す。

「リンゴって中は白いんですね。外はこんなに赤いのに」

「そういえばそうだね。あんまり考えたことなかったな…はい、剥けたよ」

 真っ白な身を晒した林檎の一切れは、イーグルに取られてなるものかと、素早くランティスがさらっていった。少女を挟んでの静かな張り合い。光はそれには気付かずに、手の中の林檎をしげしげと眺めていた。

「風ちゃんが言ってた。林檎を食べたら何か起こるかもって」

 それを聞いたランティスの咀嚼の音が止み、光は慌てて手をふった。

「毒があるってわけじゃないから、大丈夫だよ」

「何か言い伝えでもあるんですか?」

「言い伝えっていうのとはちょっと違うんだけど…地球にね、元々人間は神様の作った楽園に住んでたんだけど、林檎を食べてそこを追い出されたっていうお話があるんだ。だから、禁断の果実なんだって。童話の白雪姫だと、毒林檎を食べて眠りについちゃうし」

 今度はゼリーに手を出したイーグルが、一口二口とそれを口に運びながら頷く。

「こんなに美味しいんですから、僕なら独り占めしたくなりますね。その上に禁断の果実なんて言われたら、余計に手を出したくなります」

 ねぇ、ランティス。とイーグルが話題をふると、ランティスは眉間に皺を寄せた。彼らの間にいる禁断の果実は、次のお菓子を取りに行こうと席を立つ。真っ赤な三つ編みは、誘惑するかのように揺れていた。

(手を出したら、楽園から追い出されるか)

「追い出された先に辿り着いた場所は、もっと楽園かもしれませんよ?」

 思っていたことを当てられたのか、聴こえていたのか。ランティスは光が先程使っていたナイフを手に取ると、赤い実をすっぱりと半分に割った。綺麗に割れた断面は、やはり白。

 片方をイーグルに差し出し、もう片方は皮も気にせず齧りついた。

「リンゴなら、分けてやる」

 真剣そのものの青い瞳に、イーグルは目を丸くした。ずっと黙っていたくせに、こういう自己主張はしっかりするのだ。丸まった金色の瞳は、今度は面白がるような色味を帯びて細くなる。

「それは、果実が自分の手に落ちてきてから言う台詞ですね」

 ランティスの差し出した林檎を一口齧る。お菓子の林檎は甘く蕩けていたけれど、生の林檎は酸味が強くて歯ごたえがあった。イーグルとしては、お菓子の方が甘くて美味しい。こちらを好んで口に運ぶランティスの気が知れない。

「ヒカルも、お菓子みたいになるんでしょうか」

「…俺は、今のままでいい」

 お菓子を抱えて戻ってきた光に、二対の目が向けられる。

 きょとんと丸くなった真紅の瞳は、禁断の果実。

 2012年10月08日UP

 禁断の果実は諸説あるようですが、ここは林檎で。