Polaris

小さな恐慌

「困ったものだな」

 クレフの眉間にはたくさんの皺が寄っていた。そういう顔をすると、彼の実年齢を改めて実感できる気がする。

「国というのは一枚岩とはいかんものじゃ。我がファーレンにも数えきれぬほどの派閥があるしの」

 まだまだ子どもの域を出ないアスカが言うのだから、それは相当なものだろう。多くの妃とその子を抱えるファーレンの皇族は、他国にも漏れ聞こえるほど派閥争いが凄まじい。

 クレフが頭を悩ませているのは、オートザムとの国交問題だった。

 イーグルが目を覚まして帰国してから問題が出るなどと、彼は考えてもみなかったのだ。

 セフィーロはイーグルの病の回復を助けた。大統領の息子、そして軍中枢部に位置する人間なのだから、大統領を中心とする表向きはセフィーロとの友好関係を望んでいる。しかし、一部にセフィーロを属国にせよという声があるのだ。環境改善を待っている暇はない。こうしている間にも病に倒れる者が出ている。セフィーロは軍事力ではオートザムには到底敵わない。そして、捕虜であるイーグルが帰国し、時来たり―――というわけだ。

 今すぐ何かが起こるということはないが、野放しにして良い種とも思えない。

 クレフの重い溜息に、ジェオは頭を下げた。

「すみません、導師クレフ。折角ご協力いただいているのに、環境問題の計画も中断してしまって…」

「いや、そなたが謝ることではない。それより、何か手が打てれば良いのだが」

「簡単なことだ。表立って友好を示したいなら、王族同士婚姻関係を結べばいい」

「タータ、オートザムには王族はいないのよ。仮にいたとしても、フェリオ王子がそれを受けるはずはないでしょうし」

 そこは譲れないと、フェリオは意味深な顔で頷いた。咳払いをする風の耳が、僅かに赤くなっている。

「直接的な解決とは程遠いけれど……国交パーティーでも開いてはどうかしら?」

 こうした、いつものメンバーでのお茶会ではなく、国のトップが集う催しを行う。各国のマスメディアには大々的に宣伝し、そこで国同士の友好関係をアピールする。

 オートザムとセフィーロの関係を内外に知らしめ、世論を味方につけることができれば、過激派も大胆な行動に出ることはできないだろう。

 そして、(甚だ以て不本意ながら)旗頭にされてしまっているイーグルが特に率先してそれを示す必要があるとタトラは言った。

「ねぇ、海ちゃん、国交パーティーって何するの?」

「やっぱり食事会とかじゃないかしら? 私もニュースで見たのしか知らないわ」

「招いた側が観光案内をしている場合もありますわ」

 中学生の三人にとって、それは当然、テレビの向こう側の出来事だ。己の日常生活に影響を及ぼすことなどまずなかった。

「一度、国に帰って進言してみます。今日はイーグルもいないし、俺の独断では…」

「では、正式に決定次第、細かい段取りを打ち合わせするとしよう」

 この時点では、三人は誰一人としてそのイベントに自分が関係あるとは思っていなかった。

「そ、そんないきなり…無茶ですわ」

「大丈夫よ、普段どおりにしていてくれれば」

 大量の衣装を手に持ちながら、何でもないことのようにプレセアは言った。それでも風はおろおろしている。

「未来のお妃様だもの。ねぇ、光?」

「頑張って、風ちゃん!」

「海さんっ、光さんっ」

 頬を真っ赤に染める風に、プレセアがあれでもないこれでもないと衣装を合わせ始めた。

 現在のセフィーロには王族がフェリオ一人しかいないということで、サポート役に風が選ばれた。やることと言えばフェリオと一緒に各国の重鎮と挨拶や会話をするだけだが、「じゃあ、明日お願いね」と言われて了承できる中学生もそういないだろう。

 手伝いも必要だろうということで三人は今日は泊まりで、明日のイベントへ向けて動くつもりでいたのだが、こういう形で参加するとは思ってもみなかった。

「フウはやっぱり緑が似合うわね。差し色は何にしようかしら?」

「おーい、手伝いに来たぞー」

 勢いよく扉を開けて入ってきたのは、チゼータの姫君達とカルディナだった。

「あら、とても綺麗。本当にお姫様のようね」

 私服の上から色んな服を宛がわれ、髪に飾りを付けられている風を見て、タトラは手を合わせて喜んだ。

「カルディナ、この服でどうかしら?」

「ええんちゃう? 一回それで試着してみ、フウ。じゃ、次はウミいこか」

 さらっと名前を出されて、それまで面白おかしく風を見ていた海は仰天して後ずさった。

「なんで私もなのよ!?」

「こないな美人、眠らせとくには惜しいやろ。綺麗な女の子がおれば、お客の態度も良うなるもんやで?」

 逃がすまい、と海の腕を掴みながら、カルディナは聞き分けの悪い子どもに言い聞かせるように話す。が、その目は楽しくて仕方がないという感じでキラキラしていた。

 風と違い抵抗する海を、タータまで加勢して衣装合わせが始まった。

 呆気にとらえて(やりたい放題されている)親友二人を見つめていた光の両肩に、そっとタトラの手が置かれた。

 振り返ると、いつもの二割増しくらいの笑みでこちらを見下ろすタトラと目が合う。

「私とタータが前日から手伝いに来たのは、このためでもあるのよ」

「そうなんだ…」

 確かに、プレセアとカルディナだけでは大変そうだ。

「昼間の会談は導師クレフが滞りなく進めてくださるでしょうけど、夜のダンスパーティーは少し荷が重そうだったから」

「ダンスパーティー?」

「ええ。楽しく踊っていたら、とっても仲良しに見えるでしょう?」

 こくこくと光は頷く。

「柱の座を争った者同士のダンスは、友好の良いアピールになると思うわ」

 タトラの言葉に、光は少し考え込んだ。

「…………え?」

 漸くその意味を理解した光に向かって、タトラはさらに笑みを深めた。

「中々強引なことをしますね、タトラ姫も」

 ジェオからタトラ姫の計画を聞いて、イーグルは笑みを零した。今頃、異世界の少女達は大層困っているに違いない。

「いいじゃねぇか。お陰でこっちは大した準備も必要なかったしな」

 セフィーロ城の廊下に、二人分の足音が木霊する。城の表の方では続々と集まる訪問客で賑わっていたが、奥まで来ると普段と変わらず静かなものだった。

「今更だが、お前はダンスはばっちりだろ?」

 三国には、どの国の伝統とも異なる共通のダンスがあった。昔から国交のために使用されていたが、動きが単純ということもあり、国内での行事にも用いられることがある。イーグルも仕事で必要となったことが幾度もあった。

「楽しめばいいじゃねえか。…あんまり気にすんなっつっても意味ないが…」

 言葉を濁したジェオに、イーグルは苦笑した。彼が言いたいことは分かる。気にかけてくれているのも。

 あの話を初めてジェオにした時、ジェオは人一倍悲しそうな顔をした。当事者であるイーグルよりも素直に感情を表に出す彼に、イーグル自身が救われた部分も多い。

「…ランティスが言うんですよ。やめておけって」

 口にはしないが、ジェオも同じ意見なのは知っていた。ただ、言ってもどうにもならないと分かっていて尚言葉にしたかどうかの違いでしかない。

「あいつもお人好しだな。上手くいけばライバルが一人減るっつうのに」

「それがランティスですから」

 つくづく、優しい人だと思う。自分にはないその優しさが、イーグルは好きだった。

 一つの扉の前に辿り着き、軽くノックをする。しかし返事はなかった。中にいる気配もない。

「やっぱりいねえか」

 噂の人物は、どうやら不在のようだった。その可能性も考えなかったわけではないが、できれば先に挨拶をしておきたかったのだ。

「魔法剣士ですからね。誰かの護衛についているのかもしれません」

 仕方なく、二人は中庭に移動した。

 パーティーの会場は中庭だ。それを聞いた時、実にこの国らしいと思った。

 暮れゆく空の下、柔らかい土と芝の上で催される。広いホールを用意することなど造作もないだろうに、彼らが客人を持て成そうと考えた結果が中庭なのだ。

 この国の人は、それだけセフィーロの自然を愛しているのだろう。

 中庭は、既にたくさんの人々で賑わっていた。ウェルカムドリンクを手に、立ちながら、または椅子に腰かけながら談笑している。会談が上手くいったのか、上座では両親とクレフ、ファーレンとチゼータの王族が穏やかに話しているのが見えた。

「いらっしゃい」

 入口で声をかけてきたのは海だった。普段と違い、セフィーロの衣装を身に纏っている。そうしていると、普段よりぐっと大人びて見えた。

 海が差しだすドリンクを、二人は遠慮なく受け取った。

「ありがとうございます。ウミも手伝っているんですか? これだけ客人がいれば大変でしょう」

 困ったように笑って、海は肩を竦めた。

「まぁ、私は挨拶してウェルカムドリンクを渡せば、後は好きにしていいって言われてるから。光と風に比べればね」

「フウはフェリオ王子に付きっきりか。ヒカルはどこ行ったんだ? ダンスはまだまだだろう」

 まずはフェリオの挨拶、次に各国で伝統芸の披露、その後ダンスをして立食パーティーに入ると聞いている。

「セフィーロの出し物、光になっちゃったのよ。くじ引きで決めたんだけど」

「おいおい…」

 くじで決めるな、そんな大事なもの…とジェオは頭を掻いたが、誰がやっても似たような感じだったそうだ。

「だから、あの子は今頃は裏で準備してるんじゃないかしら。貴方も頑張ってね、楽しみにしてるから」

 最後の一言は、面白可笑しく思っているのを隠そうともしていなかった。

 次の招待客の相手を始めた海とは別れて会場に入る。すると、すぐにイーグルはあちこちから声を掛けられた。今日は父親の知り合いが多く参加していることもあり、こうなることは十分予想していた。

 一軍人に過ぎないジェオは、イーグルを残し、ぽっかりと人ごみが空いている場所へと向かった。

 近づいてみると、大きな円の形になるように、小さな光の球が浮いている。他に目印は何もないが、この中で催しがあるのだろう。

「ザズ、上手くいってるか?」

 円の傍で手持ちの機械を操作していたザズが、ジェオの声に顔を上げた。

「あ、それ酒!? いいなー、俺の分は?」

「仕事が終わってからな。それに俺のは酒じゃねえぞ」

 ちぇっと不満そうに唇を尖らせると、ザズは再び機械を操作し始めた。

「設置はちゃんとできたぜ。ただ、外で動かしたことないからなぁ。ぶっつけ本番だからちょい不安だけど」

 そう言いつつも、このメカニックはきっちり仕事をこなすだろうと、ジェオは何も心配していなかった。

「イーグルは?」

「あちこち挨拶して回ってる。俺達も一段落したら行くぞ」

 少なくとも、大統領の元へは行かなければならないだろう。ただ、今は各国のトップの輪の中にいるので、突っ込んでいくわけにもいくまい。

 ふと喧噪が静まったので顔を上げると、一段高いところにフェリオが立っていた。

 淀みなく堂々とした立ち振る舞いやその挨拶は、王子としての貫録が十二分だった。普段は気さくで親しみやすいが、やはり責任ある立場の人間は違うなとジェオは思う。

 フェリオが杯を掲げたのに合わせて、皆も杯を掲げた。酒! と五月蠅いザズには、ジェオのものを代わりにあげた。ただのジュースだが、ザズはぐいっと一気飲みをしてしまう。およそこの場に似つかわしくなくて笑ってしまった。

 一番手に、チゼータの踊り子が場に登場する。丁度最前列に来てしまっていたジェオとザズは、慌てて後退した。今日は自分達が目立つべき日ではない。

「ジェオ、何か食おうぜ。まだしばらくあるしさ」

「そう言ってる間に、すぐ回ってくるぞ。近くにあればいいんだが…」

 食事が置いてあるテーブルはどこかとその場で辺りを見回すと、フェリオと目が合った。手招きしているので、従うままにそちらへ向かう。

「ジェオさんもザズさんも、お久しぶりです」

 フェリオの隣に立つ風は、海と同じく、やはりセフィーロの衣装を着ていた。緑を基調としていて、フェリオと並んで立っていると良く映える。

「ここは少し土が盛り上がってるから、あっちにいるより見渡せていいだろ?」

 彼の言うとおり、ここは会場全体がよく見える場所だった。一見すると分からないが、なだらかな丘になっているらしい。

 すぐ近くに食事も用意されていたので、ザズは有り難くそれを頂いた。今はチゼータの踊りに夢中で、食事をしているのは彼一人だけだった。

「カルディナさんも踊り子稼業で稼いでらしたそうですが、チゼータの皆さんは華やかですわね」

 姫君まで登場して、リズミカルに動く褐色の手足に煌びやかに舞う衣装にと、まさにエンターテイメントだ。

 風にとっては、インド映画を見ているような気分になる。

「芸能って点では、チゼータは有名だからな」

 二人が話している隣で、ジェオはイーグルの姿を見つけた。大統領達の輪の中に入って、談笑しながら踊りを見学している。

 チゼータと入れ替わるように、今度はファーレンが登場した。

 人間業とも思えないような動きで、四肢を自由自在に操る。人間が積み重なって、その上にアスカが乗っている様などは見ているこちらがヒヤヒヤした。風には見覚えがあるらしく、「地球にも、中国雑技団という方達がいるんです」とのことだった。彼らの他にも似たような芸当ができる種族がいるなんて、世界(異世界だが)は広い。

「なぁジェオ、俺大丈夫かな? 全然大したもん用意してないんだけど…」

 二国のあまりの迫力に、正直ザズは自信がなかった。言われたとおりに用意したものの、到底敵うものとも思えない。

 さすがに、ジェオも「なるようになるさ」としか言えなかった。

「セフィーロも大したもの用意してないぞ。昨日決めたばっかりだしな」

「いくらなんでも、行き当たりばったりですわ。せめてもう少し早く仰っていただければ、光さんももっと準備ができましたのに」

「カルディナにやってもらう予定が狂ったんだ。チゼータの方で欠員が出たとかで…結果的に内容が被らなくて良かっただろ?」

 最後の大技を決めたファーレンに、あちこちから拍手と歓声があがった。

 ファーレンの人々が場から捌けると、今度は光がたった一人で出てきた。

 登場の仕方にも工夫が凝らされていた前の二国と違い、ただ歩いているだけだ。着慣れないだろうセフィーロの衣装で、ゆったりとした外套が風に流れている。

「…小せぇ…」

「ヒカルに言うなよ、それ」

 思わず呟いてしまったジェオに、フェリオが釘を刺した。彼女にとっては禁句らしい。

 光は場の中央まで進むと、クレフやイーグルのいる方へ向き直って頭を下げた。

 こちらへ向き直った時、目が合ったと思った。

 着飾っていても、表情はいつもの光そのものだ。少し緊張しているようではあるけれど。

 さっと礼をして、左手の辺りに右手を添える。するりと剣が現れた。彼女の体格には似合わない、結構大振りの剣だ。

 導師クレフの呪文とともに、彼女の周りをすっぽりとバリアが覆う。それを確認すると、光は目を閉じた。

 傍で、導師クレフがチゼータ王と話しているのが聞こえた。これから行われるのはセフィーロで古くから伝わっている剣の舞で、祭りから酒場まで、広く親しまれているものらしい。それ故に動きは単純だ、というのは、クレフなりのフォローなのかもしれない。

 次に光の瞼が上がった時、イーグルは不覚にもぎくりとした。

 すっかり忘れていた瞳だった。表情もすっと引き締まって、普段の無防備さは微塵も感じられない。炎の煌めきを宿したような瞳の力強さは、彼女が確かに騎士であった証だ。

 気合いの一声と共に、剣が振り下ろされる。すると、その剣閃に添って炎が走った。

 炎はクレフの魔法より先へは行かなかったが、爆ぜる音に誰かが小さく悲鳴を上げるのが聞こえた。

 ぐっと足を踏み込みながら、次は下から切り上げる。剣を振る度に走る炎は、少しずつ彼女自身を包んでいくようだった。

 クレフは剣の舞だと言ったけれど、舞にしては優美さに欠けている。そういうものなのか、はたまた彼女の世界の剣術が混じっているのか。

 くるりと回る。地面を蹴る。戦いのために振るう剣筋と、魅せるためのものが混じり合う。柔らかく膨らんだ可愛らしいスカートの下の足運びは、意外と力強い。

 彼女の炎は、彼女自身を傷つけることは一切なかった。翻るドレスにも燃え移ることはない。

 柱の試練での出来事が脳裏に甦る。あれは、自分の未来を大きく変える出来事だった。そしてこの国の未来も。

 過去へと思いを馳せていたイーグルは、炎が収束していく様子にはっと我に返った。

 クレフの魔法は既に消え去り、剣を仕舞った光は、再びこちらに一礼していた。

(少し出遅れましたね)

 周りに少し挨拶をし、足早に光の元へと向かう。本当はもう少し早く向かうはずだったというのに、うっかりしてしまった。

 すぐに、空から色とりどりの花弁が降ってきた。その様に、わっと歓声が起こる。ザズが作ったホログラムの花弁は、時に一色に染まり、次々に移り変わりながら際限なく降り続いていた。

 人混みに分け入り、先へと進む。途中で誰かに手を取られたが―――誰かはおよそ想像がついたが―――顔も見ずに会釈をして先を急いだ。

 漸く人混みから抜け出ると、光は少しほっとした様子でこちらを見ていた。その表情は、もう既にいつもの彼女に戻っている。

「イーグル」

「遅れてすみません」

「ううん、大丈夫だよ」

 手を差し出すと、彼女はすぐにその手を取った。音楽が流れてくる。

 先程の度胸はどこへやらといった感じで慌てる光に、イーグルは笑みを零した。ダンスはどうやら自信がないらしい。

「右足からいきますよ」

 小声で合図を出す。1、2、3。1、2、3。小気味良いリズムに合わせて、足を動かす。その間を、光の足は覚束ない足取りで落ち着きなく動いていた。

 足を踏んでしまいそうで怖いのだろう。彼女は足元ばかり見ていて、顔が上がっていない。その目元には先程の鋭さなどまるで感じられなかった。

 彼女の見せる二つの面は、どちらが表だろうか。

「ヒカル、顔を上げて」

 ぱっと、光がこちらを見た。彼女の瞳に映った自分の顔は、確かに笑っていた。

 繋いでいた両手を離す。きょとんとした光の腰に手をやると、ぐいと彼女を持ち上げてくるりと回った。

 空を仰ぐと、僅かに茜色を残す濃紺の空に、架空の花弁が舞っていた。驚きながらも笑顔になって光がこちらを見下ろしてくる。

 それを合図に、他の面々が円の中に進み出た。フェリオと風、自分の両親、ファーレンとチゼータの王族。

 ここまでくれば、自分達の出番は終わりでも良かった。

 ゆっくりと光を下ろすと、どちらともなく手を繋いで、再びステップを踏み始めた。

「驚きましたか?」

「うん! タトラに聞いてなかったから、びっくりしたよ」

「男性側が知っていれば良い部分ですからね」

 練習の時間も僅かだっただろうし、応用は省いたのだろう。もしくは、ただ驚かせたかっただけなのかもしれないが。

 ダンスに加わる人はさらに増え、先程のように広い中を好き勝手に、というわけにはいかなくなった。二人のステップも小さくなっていく。他の人達にぶつからないようにと、間を縫うようにして踊っていた。

「痛っ」

 顔を顰めて、光は足を止めた。後頭部の辺りを押さえている。

「大丈夫ですか?」

「髪飾りが誰かに引っかかっちゃったみたい。もう平気だよ」

 三つ編みの先には、いつものシンプルなリボンの代わりに花飾りがあしらわれていた。引っかかれば、痛くなるより先に飾りが壊れてしまいそうなものだが…。

「ヒカル、一度ここを離れましょうか」

 辺りに目を凝らしてみるが、今はもうおかしな点は見つけられない。

 こう人が多くては身動きもとれないので、イーグルは光の肩を抱くようにして、人混みの外へと向かった。

 二人が辿り着いた先には誰もいなかった。木の下に置かれたソファは空っぽだ。少し離れたところには食事が用意されたテーブルがあり、その辺りには何人か集まり、グラスを傾けていた。

 ソファに腰掛けると、二人一緒に大きく息を吐いた。それに気付いて、お互い顔を見合わせて笑う。

「お疲れ様、イーグル」

「いえ、貴方こそ。剣の舞もとても綺麗でしたよ」

 言葉にすると何とも味気ない感想だと思ったが、彼には他に表現のしようもなかった。綺麗だと感じたのは確かなのだし。

「本当? いきなりだったし、あんまり自信なかったんだ…。イーグルにそう言ってもらえて嬉しいよ」

「今日はありがとうございました。貴方達には、本当にお世話になってばかりですね」

 いつか、助けてもらった分だけお返しができたら…いつもそう考えているのに。その機会は一向に来ないまま、助けてもらってばかりいる。柱の試練、病の回復、オートザムの環境問題に、今回の事―――こんなに積み重なってしまって、果たして返していけるだろうか。

 ふと、光が視線をイーグルから外した。彼もその先を追う。彼女が見ていたのは、グラスを手に談笑しているグループだった。

「喉が渇いたなら、取ってきましょうか?」

「ううん。誰かと目が合った気がして…気のせいだったのかな?」

 今は、誰もこちらを見ている者などいない。けれどイーグルの目は、そのグループの中に己をうんざりさせる人物が混じっていることに気が付いていた。

「あの―――紺色のドレスを着た女の人ですか?」

 イーグルが指摘した人物は、妙齢の、髪を綺麗に結い上げている女性だった。形の良い唇に引かれた紅が何とも艶やかだ。

「どうだろう……そうだね…うん、確かに女の人だったような気はする」

 知ってる人? と首を傾げて問いかける光に、イーグルはそっと嘆息した。否定できればどれほど良いか。けれど、他人の口から光の耳に入るのもいただけない。誤解を生むようなことになるのは嫌だった。

「婚約者です。まだ仮の段階ですが」

 イーグルの言葉に、光は目を丸くした。およそ聞き慣れた言葉ではない。ジェオやザズとて最初の反応は似たようなものだった。

「イーグル、結婚するのか? まだ仮っていうのは…」

「こちらの返事を保留しているんです。断るわけにもいかないんですが」

 色恋沙汰に疎いとはいえ、さすがの光も状況が呑み込めたようだった。拒めない縁談というのがどういった種類のものか、彼女でもおおよそ見当がついているらしい。婚姻の制度自体がないセフィーロはともかく、異世界でも似たような事情はあるのだろう。

 この縁談の困ったところは、あの女性の一族が件の過激派だという噂があることだった。

 このまま受け入れれば、大統領は虎の子を飼うことになるが、御しやすくもなる。そこは政治手腕にかかっているだろう。

 逆に突き放せば、相手がどんな行動に出るものか、分かったものではない。まさかこの場で事を起こしはしないだろうが……。

「イーグル、ちょっといい?」

 光は、向こうの様子を窺いつつもソファから腰を上げた。イーグルもそれに倣う。

 ソファから少し離れた木々の影まで来ると、光はくるりと振り返った。眉尻が下がってしまっている。

「イーグルは…あの人と結婚するの、嫌なのか?」

 驚くほど率直な質問だった。ランティスでさえ、それは訊いてこなかったのに。

「ええ、嫌ですね」

 もし目の前にいたのが彼女でなければ、きっとはぐらかしていたと思う。それができないのは、向こうがあまりに真っ直ぐすぎるからだ。その目で見られると、取り繕うのが無駄に思えてしまう。

「仮に、好きな相手と結ばれないとしても……どうでもいい人となんて、できればごめんですね」

 好きな人との間には、横たわる障害が多すぎる。住む世界が違う、歳も離れている。オートザムとセフィーロだけでも、こんなに遠いというのに。

 けれど、すぐに諦められるほど器用な人間でもなかった。

「…イーグル、好きな人がいるの?」

 心配そうな顔をしている光に、知らず笑みが零れた。こうして一緒にいるのに、セフィーロでの療養中のこともあるのに、全く思い至っていないのだ、彼女は。

「ええ」

 今まで、色んな人間に会ってきた。見目麗しい人も当然いたし、彼女らはそれぞれ、多種多様な特技を持っていたり、優しい心を持っていたり。良い人だと思わなかったわけではない。けれど、それで恋い焦がれることはなかった。恋愛はメカを選ぶのとは違う。性能だけでは決まらない。

「とても…僕より強い心を持った、素敵な人です」

 その言葉が光の胸の内に落ちるより先に、草を踏む音が聞こえた。複数だ。

「イーグル」

 振り返ると、声の主が立っていた。噂をすれば影。

「そろそろ、ダンスのお誘いをしてくれても良い頃ではないかしら?」

「すみません、ダンスはあまり好きではないのもので」

 彼女と光の間に入る形をとろうとするが、彼女が動く方が速かった。ぱっと光の手首を掴んで引き寄せる。

 足音は複数した。今はまだ彼女しか姿を見せていないが、木の幹に隠れるようにしてまだ何人か身を潜めているのだろう。

「この子とは、あんなに楽しそうに踊ってらしたのに? こんな……未成熟で、野蛮な国の―――」

「セフィーロは―――」

「ヒカル」

 少し強い口調で遮られて、光は口を噤んだ。正確にはこの国の者ではないからこそ、親しい友人達が卑下されるのは我慢ならないだろう。けれど、己が下手なことを言えない立場だという意識はまだ光には足りていなかった。特に、今は相手が相手だ。この国に攻め込む口実を与えたくはない。

「彼女は僕の命の恩人です。そしてこの国の人達は、今もオートザムを救う手助けをしてくれている」

「でもこうしている間にも、どんどん命を落としているわ」

「移民であれば、導師クレフは快く受け入れてくれます」

 平行線の議論が続く中で、光はぴくりと身動ぎした。イーグルの耳も、微かな声を捕らえていた。「剣を抜いては駄目よ」と。

「貴方が本当に『柱』だと言うのなら」

 急に強く手を引っ張られて、光は前へつんのめった。手首を掴んでいた女性の手が離れ、代わりに一回り大きな手が掴み直す。その手の先にあるものを見て、光はぎくりと体を強張らせた。目が一点を捕らえたまま動かない。

 イーグルからは見えなかったが、武器の類を向けていることは明らかだった。

「その『意志の力』とやらで、今すぐオートザムを救ってみせればいいわ。そうすれば、セフィーロは今のままよ。それができないと言うのなら……」

 胸の中がざわめいた。婚約の話を承諾すれば良い。過激派に加わってしまった後のことはともかくとして―――目の前の、光に向けられた武器さえどうにかなれば。

 ただ一言「分かりました」と言えたなら、彼女も背後の者も、何も動きはしなかっただろう。ただ、口を動かすより体が動く方が速かった。

 光を突き飛ばすようにして、覆いかぶさる。瞬間、こちらに向けられる複数の銃口が視界に入る。半ば激突するように地面に倒れ伏した時、木立の奥から別の声が聞こえた。

「そこで何をしているのです」

 その場にいる全員が動きを止める中、声の主はゆっくりと姿を現していた。イーグルの背後から、堂々とした気配が感じられる。

「彼らは私の親しき友人。彼らに危害を加えるということは、チゼータの王族に手を出すことに等しいと、分かっていての振る舞いですか?」

 タトラの声は決して大きく張り上げたものではなかったが、その場によく通ったようでこちらに注目が集まり、辺りが騒がしくなるのが分かった。人混みを掻き分けて、ジェオが青い顔をしてやってくるのが見える。

 その後の展開は速かった。ジェオが指揮を執る中で武器を持っていた者達は拘束され、婚約者―――もはやその話もこの場で流れたが―――は任意同行という形で退場となった。

 国のトップが集う中での騒動ということもあり、予定より早いものの、パーティーはお開きになってしまった。

 表面上は穏やかに、けれど僅かに緊張を残しつつ皆が帰路につく。光や他の少女達も、促されるまま奥に引っ込んだようだった。

「俺達も早く帰るぞ。お前の療養のこともあるし、本当はゆっくりしていきたいところだが…」

 そう言ってジェオは急かした。大統領や他の者は既に船に乗り込み始めている。護衛のつもりなのかジェオはイーグルから離れなかった。

「ハプニングはあったけれど、当初の目的としては成功だったのではないかしら?」

 おめでとう、とタトラは含みのある笑みを見せた。止めに入った時と同じ人物とは思えない穏やかさだ。この人は中々に厄介だとイーグルは常々考えていた。

「先程はありがとうございました。剣を抜かないようにヒカルに助言をしてくれたのも、貴方ですよね」

 あの場で、光とイーグルのどちらかが武器を手にしていれば、過激派の恰好の餌になっていたことだろう。真意はどうであれ、セフィーロとオートザムが敵対関係にあると吹聴するための種になったに違いない。あの場を収めてくれるのに、彼女ほどの適任はいなかった。

「いいえ、何事もなくて本当に良かったわ。それに……」

 ふふ、と心底面白そうに笑う。

「頑張ってね。私、貴方のことを応援しているわ」

 やはり厄介な人だと痛感する。妹のタータは絵に描いたような真っ直ぐさだが、この人はその正反対だ。一見すると物腰が柔らかいだけに性質が悪い。

「……いつからあの場に?」

「『どうでもいい人とは結婚したくない』からかしら」

 それが何か? とでも言いたげな様子で首を傾げてくる。ジェオや、他の者がこの場にいることもあり、イーグルがこれ以上追及してこないと分かっていて堂々としたものだ。

 心の中で溜息をついたが、それすらも見透かされているように感じた。

 三人揃って普段着に着替えながら、お喋りが弾む。一緒に行動していなかったので尚更だ。

「光さん、本当にお怪我はありませんか?」

「大丈夫だよ、風ちゃん。何ともないったら」

 本当に、擦り傷一つなかった。地面に倒れた時は少しは痛かったけれど、上手く庇ってくれたのだろう。

「もう! イーグルが一緒だから少しは安心してたのに! こんな時に限ってランティスはまだ任務中だし! 心が強いって言っても、肝心な時に役に立たなきゃ意味ないじゃない!」

「海さん……お二人が悪いわけではありませんから」

 まあまあと、風が宥める。それでもまだ海の気は収まらないようだった。

「イーグルも、縁談なんてさっさと受けるなり断るなりすれば良かったのよ。何を迷ってたのか知らないけど、先延ばしにするからこんなことになったんじゃない」

「……イーグル、好きな人がいるって言ってた」

 光のその言葉に、二人ははたと動きを止めた。心持ち小声になって、光の方へ身を寄せる。

「……誰?」

「どなたかお聞きになったんですか?」

「え、ええっと……名前は聞いてないんだけど……」

「けど?」

「……イーグルより、強い心を持った人―――って言ってた」

 しばしの間、着替える手を止めて三人共動かなかった。

「……それで、何とお返事をされたんですか?」

「へ、返事って? 別に何も……」

「まさかとは思うけど、意味が分からないわけじゃないわよね?」

「そ、その後に婚約者の女の人が来ちゃって、その時は何にも考えてなかったんだけど、あの…」

 漸く思い至ったのか、顔に血が上ってきた。

「で、でも、違うかもしれないし」

「何が違うのよ」

 にやりと笑って、からかうように指先で肩を突く。

「次にいらっしゃる時が楽しみですわね」

「ふ、風ちゃん―――」

「三人共、まだ着替え終わってないの?」

 突然聞こえてきたプレセアの声に、揃って跳び上がった。その驚き様に、プレセアの方もびっくりしてしまう。

「ちゃんとノックしたじゃない。何、どうしたの?」

「あのねプレセア、光が…」

「駄目だよ海ちゃん! 言っちゃ駄目だ!」

「光さん、そのセリフは墓穴ですわ」

 結局は存分に吐かされてしまって、次にイーグルが訪れた時にはあちこちから含みのある視線を注がれたとか何とか。

 2014年10月04日UP

 イーグルをからかうことができるのはタトラだけ、みたいな話。