Polaris

美しい人

 ああ、可愛い人だな、と思う。

 可愛らしさというのは、何も見た目だけで形成されるものではない。些細な動きや、言葉の節々に滲んでくるのだ。

 深紅の瞳はくりくりと丸く、そこに緊張感はない。瞳を宝石に例えることは間々あるが、宝石より余程温かみがあるし、その奥に潜んでいる感情によって色味も変わる。見ていて飽きることはない。

 真剣な時にはきゅっと結ばれる口元は、今はやや開き気味になっている。紅を引かずとも健康的な赤みを帯びているその唇に、触れてみたくて堪らない。

 小柄な体は指先や編んだ髪の先に至るまで、彼女の意志を反映しているかのようにはつらつと動いていく。離れていってしまいそうで、ついつい、自分の腕の中に閉じ込めてしまいたくなる。仕草の一つ一つを目で追うのも好きだけれど。

 本人を目の前にして、イーグルはじっくりとこんなことを考えていた。というのも、いつもなら元気いっぱい喋る光が口を噤んでいるからだ。光はというと、物珍しげにイーグルを見つめている。

 このまま見つめ合い続けても一向に構わないけれど、イーグルの中で悪戯心が芽を出してきた。幸い、今はランティスが不在。光がどんな可愛い姿を見せてくれても、それを自分が独占できる。

 イーグルの口元がひっそりと持ち上がったのと同時に、光の開いていた口は塞がれてしまった。

 目をぱちくりさせた光を見て、今度はイーグルの目元が綻ぶ。

「半分こです」

 口を塞いだのは、お茶菓子として出されたクッキーの最後の一枚。それを持つ彼の指先には、柔らかな唇の感触がある。

 光がクッキーを齧ると、残りの半分はイーグルの口の中へと消えた。彼女の口がもぐもぐと動いている間に平らげ、指先がこっそり舐められる。当然、クッキーの味など分からない。胸の奥で何かが蠢くのを感じるだけ。

「今日のヒカルは静かですね」

「ごめんなさい、何の話してたんだっけ…」

 申し訳なさそうな光の口元には、クッキーの欠片がついている。ああ、あれが欲しい。

「ガッコウのお友達の話でしたよ、確か」

 学校の友達が、最近すごく夢中になっていることがある―――という話だった。そこでふと会話が途切れ、お互いの観察を堪能することになった。ジェオがいれば「なんでそこで止まるんだ」と突っ込まれるところだが、二人の間では別に珍しいことでもない。眠ってしまうこともあるくらいだ。

 思い出したとばかりに、光は手を打った。

「そう、友達がね。男の人にすごく夢中になってて」

 今まで光の口には上らなかった話題に、イーグルは目を丸くした。彼女の周りはそういうお年頃になったのだろうか。

「好きな人ができたんですか?」

 そうじゃないんだ、と光は首を振る。彼女の目を見たままで、イーグルはふるふる揺れる三つ編みの動きを追っていた。

「アイドルなんだけど、アイドルってオートザムにもいるのかな…。えっとね、歌を歌ったりお芝居をしたりする人でね、カッコよかったり可愛かったりしないとなれないんだ」

「ええ、オートザムにも居ますよ。チゼータやファーレンにも」

 国が発展してくると、そういう生業が生まれるのだろうか。セフィーロではまだ聞かない。

「それで、お友達はそのアイドルの人に夢中なんですね?」

「そうなんだ。その人が新しい歌を作ったらお店に並びに行ったりするし、この間も本に載ってるのを『見て見て』って。『キレイでカッコいいでしょ』って言うんだ」

 でも、とちょっと困った顔になる。眉尻が下がっている様子に、思わず頭を撫でたくなってしまう。

「私にはよく分からなくて」

 アイドルに興味がないというのは、とても光らしい。彼女がアイドルに夢中になっている姿は想像できない。夢中になってもらっても困る。

 そんなことを考えていたから、次の言葉は不意打ちで目を丸くしてしまった。

「だってね、イーグルの目の方がすごく綺麗なんだもの」

「僕ですか?」

 先程、あんなにじっくり堪能した綺麗な瞳を持つ人に、逆に褒められるとは思わなかった。

「きらきらしてるし、蜂蜜みたい」

 ハチミツ―――が何かはイーグルには分からなかったが、嬉しさと少しの気恥ずかしさに、とろりとその目を細くする。

「ヒカルだって、綺麗な瞳ですよ。宝石みたいで」

 許してもらえるなら、その宝石がどんな表情を見せるのか。全てを見てみたい。

 そっと箱の中にしまいこみ、誰もいないところで眺めていられたらどんなに良いか。瞳の色や靡く髪、四肢の動きと、同じ姿を二度見ることはできない。チャンスは一瞬だけ。その一瞬を誰彼かまわず晒しているのだから、勿体なくて仕方がない。

「ねぇ、ヒカル」

 そして、もっと好きなもの。

「名前を呼んでもらえませんか」

 きょとん、としたものの、素直に光は呼ぶ。

「イーグル」

 自分の名前を呼ばれるのが、なぜだかとても好きだ。魔法を使うのに呪文を唱えるように、彼女が呼んでくれる自分の名は、秘密の鍵になっている。心の箍を外す鍵。

 もう一度、とねだってみれば、笑顔を浮かべて応えてくれる。

「イーグル」

 どうしたの? と首を傾げる彼女を、そっと抱き寄せた。自分の頬に感じる、柔らかな頬の感触。体重を預けてくれるのが心地良い。このまま眠れば幸せな夢が見られそうだが、中々チャンスがないこんな時を眠って過ごすのは惜しすぎる。

 感触を堪能してふと目を開けると、先程のクッキーの欠片を見つけた。光の口元―――唇と頬の境目。

(欲しい)

 飢えているな、と思う。幸か不幸か、今日はストッパーになるものがない。光さえ気付かなければ、あとは簡単。

 こうして抱きしめても何もないのだ。あれは、その延長線上に位置する。きっと彼女は気付かないか、何とも思わないだろう―――高を括って、イーグルはそっと動いた。

 啄む。頬を? 唇を? それともクッキーを?

 ただ柔らかさだけを感じたが、それがなんの感触かは分からなかった。ゆっくり考える暇さえなかった。

 ぱっと光が体を起こす。

 蜂蜜色の瞳は、見開かれた深紅の瞳に見つめられていた。先程の緊張のない色ではない。水面が波立っているような、混乱の色。

 柔らかな頬はあっという間に赤く染まり、触れたかどうか分からなかった唇はきゅっと結ばれる。初めて見る彼女の姿だ。恋愛の領域に属する表情。

「クッキーが残ってましたよ。ごちそうさまです」

 美味しく頂いたのは実は彼女自身だなんて、イーグルの笑みを浮かべた口からは告げられない。もっと欲しいとすら思っていることも。

 光の視線はイーグルを避けるように右往左往したが、やがて俯いてぽつりと呟いた。

「なんだか、お腹が空いちゃった…」

「そうなんですか?」

 お腹が空いたというには、何とも切ない表情。お腹が空くと切なくなるらしい彼女は、今もそういうことなのだろうか。それとも、切ないからお腹が空いていると思っているのか。

 意外と長い睫毛がかかった瞳の奥を、イーグルはじっと見つめる。光の心の奥を覗き込むように。

「それなら、広間にでも行きましょうか。この時間なら誰かお茶をしているでしょうし」

 こくんと頷き、光はイーグルの腕の中から抜け出した。

「ヒカル」

 呼ばれて、光は彼を見つめる。

 美しい金色の瞳は、彼女の姿を映してゆっくりと微笑んだ。

 2012年10月18日UP

 イーグルがポーカーフェイスの裏で何を考えてるのか、とか。