雨が止んだら
オートザムにも雨が降る。しかし、イーグルは肌でそれを感じたことはなかった。
汚染された大気を存分に含んだ雨が降る時は、屋外へ出ることが禁じられる時でもあるのだ。だから、雨と言えば、窓にボタボタと打ち付けられる印象しかない。
今自分に降りかかる雨は、異世界の言葉を借りるなら「しとしと」と降り続いていた。屋根の下にいるのに、地面に落ちて弾けるのか、空気中で分散するのか、イーグルの肌に目に見えないほど細かい雫をつける。
昨日から降り続いているため、目の前にある中庭のあちこちに、「水溜まり」というものができていた。これは雨が止んでも残るらしく、忘れてうっかり踏んでしまうと大変なんだと光は語っていた。異世界もセフィーロと変わらず、排水処理が完璧とはいかないようだ。
彼女達の国は比較的雨が多く、雨を表す言葉だけで百を軽く超えるらしい。この雨を何と言うのかは、彼にはまだ分からなかった。
雨のせいで、城の中は驚くほど静かだ。普段、日中は武術の鍛錬をする親衛隊や、魔法の訓練をする魔導師達で、それなりの活気はある。イーグルの部屋の辺りはさすがに静かだったが、この中庭などは、大抵誰かがいる場所だった。
雨に当たって体を冷やすと体調を崩すぞ、とランティスには言われた。清浄な雨でも、オートザムと同じく、雨が降ればセフィーロの人々は極力外へ出ないようだった。皆、今頃は室内で書類を片付けるなりしているのだろう。
この雨が止んだら、中庭を散歩しても良いだろうか。いや、水溜まりがなくなるまではやめた方がいいのだろうか。
「イーグル」
突然呼ばれて、少々驚いた。光が駆け寄ってくる。人の足音を聞き逃すことなど滅多にないのに―――城内が静かに思えたのは、雨音のせいだったのか。
「こんにちは、ヒカル。今日は変わった格好をしてますね」
足元は、いつもの小さな靴ではなく、ぶかぶかしたブーツ。左手には何か大きな布を抱え、右手には風変わりな棒が握られていた。
「東京も雨だったから。こっちも降ってるから、来た時びっくりしたんだけど」
丁度良かった、と背負っていた鞄を降ろし、イーグルに嬉しそうに何かを差し出した。四角く平べったいそれは、何かをパックしたもののようだ。一見すると、中に服が入っているように見えるが……。
受け取って裏返してみたりするが、光の意図したことは彼にはまだ分からない。
「この前、雨の話をしたよね。それで、家に使わなくなった兄様の合羽があったのを思い出して、持ってきたんだ。イーグルに使ってもらおうと思って」
「これは、雨の日に使うものなんですか?」
パックから中身を取り出すと、それは案外大きかった。所々皺ができているそれは、やはり服だ。外套のように見える。あまり寒さを凌いでくれそうにはなかったが。表面は滑りが良く、少し光沢がある。
光はというと、手に持っていた大きな布を広げていた。形は少し違うが、イーグルが持っているものと材質がよく似ている。漸く合点がいった。これは雨の日に服が濡れないように着る外套なのだ。
光のものは赤の地にポイントでチェックの柄が入っている、いかにも女の子らしい柄だった。大分布に余裕があるらしく、裾がドレスのスカートのようにふわふわしている。丈は膝が覗く程度だ。対象的に、イーグルのものはデザイン性には一切拘っていない物のようで、銀色とも灰色とも言えない色合いだ。特に装飾もなく、こちらは普通の服のように上着とズボンがある。彼女の兄はイーグルより大柄なのか、少し大きめのサイズのようだ。
「服の上から着るんだよ」
ズボンの上からズボンを穿くというのは少し抵抗があったが、布地が薄いからか、着てみると案外違和感はない。動く度に布が擦れ合って、シャリシャリと音を立てる。
「本当は、長靴もあればよかったんだけど」
そう言って、今度は棒の方を取り出した。手元にある小さなボタンを押す。
バンッ。
思いのほか大きな音で、少しびっくりする。ボタンを押した途端、棒に沿っていた布が丸く膨らんだ。不思議な形状だ。中が空洞の半球に、棒を突き刺したような形。
光はそれを空へ向けると、そのまま中庭へと歩き出してしまった。
「ヒカル!」
思わず、大きな声で彼女を呼び止めてしまった。頭で分かっていても、己の中の常識が咄嗟の時には勝ってしまったのだ。雨に触れるのは危険。それはオートザムでの常識で、セフィーロでは通用しない。
光はきょとんと目を丸くしてイーグルを見つめていた。
「いえ……雨に濡れると、体を冷やしますよ」
ランティスに言われたことを、そのまま伝える。この服を用意してくれたその意味を、当然イーグルは理解していたのだが。
雨の話をした時、オートザムでの事情に光は驚いていた。だから、故郷でできないことをこのセフィーロでやってみたらいいと考えたのだろう。
「合羽も傘もあるし、きっと大丈夫だよ。行こう?」
光がイーグルの手を取る。そっと、ゆっくりと二人は足を進めた。光の体が屋根の外に出る。イーグルの足の先が出る。彼女が精一杯高く掲げた傘の下に、イーグルの体が入ってくる。
ボ、ボ、ボ、ボと、傘に雨が当たる音が聞こえる。城の中にいた時は、城全体が雨に囲まれたような気がしていた。今は、傘の下のこの小さな空間が囲まれているような気がする。実際には大きく開けているのに、狭い場所にいるような感覚。
「本当は、傘か合羽のどっちかでいいんだけど…でも、やっぱりイーグルが風邪ひいちゃうと大変だから」
小さな空間で、彼女の笑顔が見える。
世界がいきなり狭くなったような錯覚に陥った。
「僕が持ちますよ」
光から傘を受け取る。彼女の背丈では、イーグルより高くそれを掲げるのは少々苦しそうだった。
二人が傘の下から出ないように、ゆっくりと歩を進めた。靴の下の地面は柔らかい。足を上げたり下ろしたりする度に、足元に溜まっていた水が撥ねた。
いつもは空へ向けて広げている木々の葉が、今は打ち付ける雨に負けて少し下を向いている。曇り空と雨のせいか、青々とした緑ではなく、くすんだ灰色に見えた。
「あ、イーグル、あそこ」
光はフードを被ると、ひょいと傘から出てしまった。今度は、止める間もない。
彼女が指差す先にあるのは、鬱蒼と茂った木立の間にある道とも言えない道だった。普段は木の葉に隠れて見えないのだろう。道の先にもまだ木々が生い茂っているようだ。
「行ってみよう」
光は水が撥ねるのも気にせず(どうやらあの靴も雨のための物のようだが)、時々イーグルの方を振り返って手招きしながら先へ進んでいく。
彼女の赤いコートは、みるみる内に雨に濡れていった。表面が水を弾いて玉を作ったかと思うと、すぐに次の雨と一緒に流れていく。二人分の水っぽい足音だけが中庭に響いていた。
「随分狭い道ですね」
まるで木のトンネルだ。それも、光ならぎりぎり屈まずに通れるくらいの、小さなトンネル。
イーグルもフードを被り、傘は結局光に畳んでもらった。そうしないと通れない。布越しに肌に感じる雨は、思いの外強く打ちつけてきた。雨音すらしない大人しさだから、もっと弱々しいのかと思ったが。
気持ち程度に屈んで進んでいく光に続いて、イーグルは頭上に気を付けながら腰を曲げて進んだ。フードが引っかからないようにと添えた手に、木の葉から落ちてくる雨が降りかかる。辺りを満たしている空気と同じ、ひんやりとした冷たい雨だった。
道というよりは、単に木立の間を縫うように歩いているに等しい。奥がどこまであるのかイーグルからは見えなかったので、トンネルが終わった時、視界は突然開けた。
セフィーロの端まで見渡せるのではないかと思える程の景色だった。雨に煙っているセフィーロは、普段は強く主張する緑が、少し大人しくしているように見える。立体的な雲がゆっくりと移動する様もよく分かった。
「すごいね。晴れてる時なら地平線も見えそうだ」
「そうですね、本当に」
まだ数えるほどしか、こうしてセフィーロを見渡したことはなかった。そして、毎回思うのだ。普段足を運ぶ中庭の緑ももちろん素晴らしいけれど、やはり中庭は人の手が加わった要素が強い。勝手気ままに枝葉を伸ばす自然の緑とはやはり違うのだと。
自分自身がそうなのだ。今同じ景色を見ている光や、親友であるランティスとは違う。自分の命は、文字通り周りに支えられてなんとか保っているようなもの。借り物のようなものだと。
ふと気が付くと、光の視線はセフィーロの空に向けられていた。見上げるものだから、頬にポタポタと雨が落ちてきている。
「ヒカル?」
釣られて、空を見上げる。灰色の空だ。オートザムの空を思い出させる、重苦しい色。イーグルが好きな、抜けるような青空とは違う。
「雨、少し止んできたね」
光の言うとおり、確かに降る量が減ってきた。こうして顔に雨を受けても、目を開けていられるほどだ。
きょろきょろと辺りを見回し始める光は、明らかに嬉しそうだ。そして、その目がようやく雲の切れ間を見つけた。
二人が来た方向―――城の向こう側から、日の光が差していた。こちらは雨。向こうはどうやら晴れのようだ。雨に濡らされたセフィーロ城が、光を受けていつもより輝いて見える。
その光景にイーグルは見惚れてしまったけれど、光はというとすぐに逆方向へ目を向けた。
「あ、ほら、イーグル。あっちだ!」
「え?」
光が指差す方向。その先にあるものを見て、イーグルは我が目を疑った。
相変わらず雨が降っているセフィーロの大地に、巨大な半円が出現していた。
暖色から寒色へと、様々な色を経て変わっている。その帯が半円の形で空に浮かび上がっていた。実体はないのだろう。徐々にくっきりしてくるが、それでも向こう側が透けて見えていた。
「イーグルは、虹、初めて?」
「ニジ、というんですか」
初めて見るものに、目が釘付けになる。うっかり目を逸らせば消えてしまいそうで、光の方を見ることもできない。
「今みたいに、雨が止みかけの時にお日様が出ると、運が良いと見られるんだ。すぐ消えちゃうんだけど」
あれは日光の屈折によってできるのだという。成程、原理としては理解できる。オートザムで日常的に使用されるホログラムの類も、似たような原理の応用だ。
「綺麗ですね」
「そうだね」
「あれは、ヒカルが出したものではないんですよね?」
「私はそんなことできないよ」
だって、まるで魔法のようだから。あれが自然現象だとして、発生することに意味があるのだろうか。花が咲くのは、受粉の手伝いをしてくれる虫や鳥を誘うためだという。そんな風に、虹にも意味があるのだろうか。
「虹の麓にはね、宝物が埋まってるって言うんだよ」
「本当ですか?」
「えーと…あったらいいねって話」
つまり、迷信だ。
そのような迷信が語られるのも頷ける。原理が分からなければ、こんなに驚く現象もないだろう。
背後からぐんぐんと日の光が広がってくる。二人の頭上を通過する。上を見れば、雨上がりの澄み切った青空だ。
対照的に、雨を降らせた雲はどんどん追いやられていった。そして、虹も薄くなっていく。見たことさえ幻だったように消えていく。
ようやく、イーグルは遠くを見つめていた目から力を抜いた。吐いた一息は思いのほか重く、気付かぬ内に力が入っていたのだと知る。
視線を落とすと、こちらを見つめている光と目が合った。何か問いたそうな視線だった。促すように小首を傾げると、光は一度だけきゅっと唇を結んでから口を開いた。
「イーグル、少しでも元気になってくれたかなって。悲しそうだったから」
予想外の言葉に、なんと言ったものかと逡巡する。
(参りましたね)
彼はいつもの笑顔を崩した気はない。ランティスやジェオはともかく、光に見透かされるとは思ってもみなかった。彼女は、想像以上に人のことをよく見ている。
「心配してくれてたんですね。ありがとうございます」
ううん、と光は首を振る。合羽についていた水滴がそれにつられてぱらぱらと落ちた。
「別に、理由があるわけではないんです。雨が降るとそんな気分になるだけで」
「私も、たまにそんな気分になるよ」
それは意外だ、と口に出すのは失礼だろう。光は常に明るく振る舞っているので、つい、忘れてしまいがちになる。彼女の感情表現は直球だが、心の中はそんなに単純ではない。それは、柱の試練の時に嫌というほど痛感した。
「昼間から薄暗いしジメジメするから、気分まで暗くなっちゃうんだ。雨が降ると出来なくなることも多いし、外に出たら服も荷物もよく濡らしちゃうし…」
でもね、と笑う。その笑顔は、心の芯から来るものだった。
「今みたいに虹が見れると、すごく嬉しくなるんだ。海ちゃんは、お気に入りの傘が差せるから、雨が降るのも楽しいって言ってた。風ちゃんは、雨上がりの水溜まりに、散った花が浮かんでるのが好きなんだって」
まだ成長過程にある少女の伸びやかさだ。気が付くと、自分にまで染みてきてしまう。意識せずとも目元が緩むのは、誤魔化しの笑顔が身についているからではないだろう。
「それにね、雨が止んだら何をしようかって計画するのも楽しいよ」
「そうですね」
それは心底そう思ったから出た言葉で、その言葉に光は嬉しそうに笑った。
「では、折角ですから―――」
急に二人に大きな影が落ちてきて、イーグルは続きを飲み込んだ。
「何をしている」
二人の背後に立っていたのは(イーグルはそろそろ来るのではと予想していたが)ランティスだった。それも、髪から水が滴るほどの全身ずぶ濡れだ。
「ど、どうしたんだランティス!? そんなに濡れたら風邪ひいちゃうよっ」
「お前達も濡れている」
恐らく、自分と光を探してくれていたのだろう。けれど、それをおくびにも出さないランティスに、イーグルは笑いを堪えた。こんなになってまで探してくれたのに、笑ってしまっては悪いだろう。
「僕達は濡れてませんよ。ね、ヒカル」
「うん」
合羽のフードを脱いでみせる。少し雨を浴びた前髪はともかく、フードにすっぽり覆われていた部分は被った時と変わらない。それを見たランティスの目が、少し驚いた後にむっとしたので、堪えきれずに笑いが漏れてしまった。
「すみません」
形だけ謝っても、ランティスはさらにむすっとするだけだった。しかし光までつられて笑ってしまったものだから、今度は困ったような顔になる。この人が無表情だなんて、誰が言ったんだろう。自分よりは、よほど表情豊かだ。
「ごめんね、ランティス。風邪ひいちゃいけないから、お城に戻って着替えた方がいいね」
「お前達も戻れ。もう一雨来そうだ」
「分かりました、もう戻りますよ」
先程の雨雲を押しやった青空は、次の雨雲に追いやられそうな様子だ。降ったり止んだり、忙しい。
濡れた草の上を、転ばないように慎重に歩く。降られている最中は雨に打たれて重苦しそうに見えたのに、木々も草花も、生き返ったようにつやつやしていた。
「ね、ヒカル」
振り向いた光の瞳は、空や木々に負けじと、晴れ晴れと澄んで見えた。イーグル自身の瞳は分からない。けれど、先程より胸の奥が軽くなったのは感じていた。そのままポンポンと跳ねてしまいそうだ。
「雨が止んだら、虹の麓へ連れてってもらいましょうか」
2014年07月09日UP
カップリング要素なしですが、三人で仲良くしてるのが好きです。
梅雨の間にUPしたかったんですが、ぎりぎり間に合いましたでしょうか…?