いつの日か
「皆、私を置いて逝ってしまうな」
呟くようなその声は、風に掻き消されるようにセフィーロの空へと流れていった。
眼下の青々とした大地は地平線の彼方まで広がり、頭上の空はどこまでも澄んでいる。それを見つめているクレフの背中は、いつもより小さく見えた。
彼にとって、親しい人の訃報は何度目のことなのだろう。恐らくは数えきれないほどなのだろうけれど、だからといって慣れるものでもないのだ、きっと。
寂しくはないのだろうか。
親しい者を失う悲しみから、己の道を閉ざすような師でないことはよく知っている。そのような心ではないからこそ、ずっとこの国を見守り続けているのだということも。
けれど、その背中から寂しさを感じないわけはなかった。平気なわけがないのだ。そのような師でないことも、自分はよく知っていた。
「そんな顔をするな」
振り返ってこちらを見ると、クレフは可笑しそうに頬を緩めた。
「愛する者との別れは辛い。もう二度と語らうこともなく、触れることも叶わん。だが――」
大きな杖が大地を示した。杖の装飾が、師の衣が、ふわりと風に靡く。
その肉体は大地に帰る。そしてその心も、きっとセフィーロの空や海、大地に根付き、この国を支えてくれる。何の根拠もないけれど、自分はそう信じているのだと。
だからこそ、自分は前を向いて進める。いつまでも下を向いていては、叱責されてしまうだろうから。
「だから、お前が思っているより、私は平気だぞ。辛いが、平気だ」
舐めるなよと杖で小突くと、クレフは衣を翻らせた。
城の中へ。今、彼のいるべき場所へと向かって。
(では、セフィーロ以外の者は)
この国を定住の地としない者は、どこへ行くのだろう。
決まっている。自身の国の空となり、大地となるのだ。クレフの言葉を借りるとすれば。
己の故郷というのは特別なものだ。他にどんなに素晴らしい場所があろうとも、己を育んだ場所をそう簡単に捨てられる者などいない。
たとえ滅びの未来が近くても。たとえ恵まれていなくても。そう。国の在り方そのものに疑問を抱こうとも、捨て去ることができなかった自分のように。
ふと手の甲に感じた温もりに、ランティスは顔を上げた。
『今の話、聞いていなかったでしょう』
溜息が聞こえてきそうな心の声だった。その声の主は、いつもの穏やかな寝顔のまま寝台に横たわっている。
隣を見ると、光の大きな瞳が心配そうに揺れていた。
何かあったのだろうか。具合が悪いのだろうか。その目はそう問いかけていた。触れてくれている手のひらは「大丈夫、ここにいるよ」と教えてくれていた。
「すまない」
聞いていなかった、と返す。『仕方がないですね』と言うイーグルは、こちらの事情にはあえて触れずに再び楽しい話題に戻してくれた。
顔も見ていないのに、どうして分かるのだろう、この男は。
再開された会話を聞き逃すまいとするものの、意識は相変わらず自分の心の奥に向いていた。
今笑って話しかけてくれるこの少女は、いつまでこうしていてくれるだろうか。
異世界で何が起ころうと、自分は何もできない。何も分からない。ある日突然、こちらの世界に来なくなったとしても不思議ではないのだ。
眠ったままで話をしてくれるこの親友は、本当に目が覚めるのだろうか。目が覚めないまま、いつの間にか心の声を出さなくなったとしても、何もおかしくないのだ。
自分だって、いつ命を落とすか分からない。今この時じゃないと、何の根拠もなく信じているだけで。
いつの日か。
親しい者が皆いなくなってしまったら。
この国の大地にも、空にもその気配がなくなってしまったら。
考えるだけ無駄なことだと分かっていても、その不安を解決する方法などないと知っていても、一度抱いた不安は簡単には取り除けなかった。
「あ、それ」
光が制止するより早く、ランティスはカップに口をつけてしまった。喉を、甘ったるく温かなものが通っていく。
思わず眉を寄せると、光は笑いながら彼のカップを差し出した。
「……すまない」
「すごく甘かったんじゃないか? 私、いっぱい砂糖入れちゃったから」
『ぼーっとしてるからですよ。罰として、全部飲んじゃってくださいね』
いつか失ってしまう。それが分かっていたとしても、この場を離れることなど、ランティスにはできるわけがなかった。
先に辛いものが待っていたとしても、少なくとも、今この瞬間は間違いなく幸福なのだから。
2015年08月24日UP
他国の人と親しくなると、セフィーロ人にはこういう問題があるような気がします。