黄昏
久しぶりに開けた視界には、眩いばかりの世界が映った。
セフィーロの空の色、緑の色、土の色。どれも僕の故郷にはない。
「今日もいい天気ですね」
まだ少し重たい瞼を上げて、僕は空を見た。
導師クレフは「少しずつ回復に向かっている」と言っていましたが、誰もが驚くほど早くにこうして目覚めることができました。まだまだ眠っている時間のほうが長いし、たくさん動けるわけではないけれど。
そういえば、一番最初に見た「驚いた顔」はランティスのだったかな。彼は元々無表情だから、ちょっとした変化でも「してやったり」な感じで面白いです。そんなこと言ったら怒られますけどね。
導師クレフは、気配で僕が目覚めたのを知ったみたいですから、顔をあわせた時は普通でした。初対面なので別にいいんですが。
ジェオとザズは知らせを聞いてすぐに会いに来てくれましたが、怒られて散々でしたね。まぁ、これは覚悟してましたし、仕方ありませんね。
「心の中でしゃべる癖がついたんじゃないか?」
ぼそりと低音の声が聞こえたと思ったら、ランティスですか、やっぱり。
「あれ、聞こえちゃいましたか?」
「…そろそろ来るぞ」
「もうそんな時間ですか」
ベッドは恋しいですが、仕方ありません。折角動けるまでに回復したんですし、やりたいことはやらないと。
会いたい人に、まだ会えていない。異世界とは通信の手段がないそうで、彼女はまだ僕が目覚めたことを知らないそうです。
「楽しみですね」
「……」
何も言わなくても、彼が待ち焦がれていることはわかります。目がキラキラしてますから。
「僕も、楽しみです」
ヒカルには、たくさんお礼を言わなければならない。最後に彼女を見たのは、あの道の中でしたっけ。光に包まれたところまでは見えていたんですけど。
「今日もいい天気ですね」
廊下には、窓の外からたくさんの陽の光が入ってきている。建物の白と植物の緑。自分の故郷も白や緑を基調としていたと思うんですけど、太陽の光があればまるで違って見えてしまう。
なんて平和なんだろう。あの時と、なんて違いだろう。
僕が柱にならなくて良かった。本当に。
「おっと」
前を見ないで歩いていたので、ランティスが止まったのに気づきませんでした。
「どうしたんですか?」
視界いっぱいに広がる彼の白いマントをどけると、珍しく微笑んでいる彼の横顔が見えた。
「…イーグル?」
暖かいその声に廊下の先を見ると、赤い点。いえ、点というのはオーバーですけど、それくらい、僕にとっては予想外に小さかったんです。
向こうにいるのは、一見すると、ただの女の子。
「イーグル!」
飛び込んできた小さな体の力強さに少し驚きました。一生懸命抱きしめてくれるから。
「こんにちは、ヒカル」
「イーグル! もう大丈夫なのか? いつ目が覚めたんだ?」
間違えようもない、眠っている間に何度も聞いたヒカルの声。そのはずなんですが。
「あなたが帰った次の日ですよ。もう大丈夫です」
赤い髪を撫でる。嬉しそうに笑ってくれる。けれど。
「そうだ! 私、海ちゃんと風ちゃんにも知らせてくるね!!」
ぱっと体を離すと、飛び込んできた時と同じような素早さで元来た道へと駆けていった。あまりにあっという間で、ちょっと驚いてしまいました。
「…なんですか?」
ランティスがこちらを見ていた。まじまじと。
「あ、もしかして、妬いてます?」
ヒカルが、自分には目もくれずに僕に話しかけてきたから。
「…お前こそ、どうかしたのか?」
「え?」
ランティスはまだ何か聞きたそうでしたが、黙って歩き出しました。ヒカルが向かった大広間の方へ。
「やっぱり、敵いませんね」
付き合いが長いからなのか、それとも、彼が元々鋭いのか。
「ちょっと寝惚けてただけですよ」
そう言って誤魔化してみても、やっぱり、お見通しなんでしょうね。
あの時のことは夢幻だったのだろうか。それとも、長く眠っている間に、本当に酷く寝惚けてしまったんだろうか。
この目で見て、一言でも二言でも謝りたい、お礼を言いたいと思っていた彼女は、自分の頭の中にあった彼女の姿とは大きくかけ離れていた。
燃えていた。でも、触れると温かかった。手を握ってくれた感触。頬を撫でてくれた感触。抱きついてきたあなたの感触。
あの時あなたが流した、綺麗な涙。
炎の精も涙を流すのかと、心のどこか冷静な部分で驚いていた。
「イーグル、具合悪いのか?」
「いいえ、大丈夫ですよ」
「…本当に?」
「ええ。あんまり綺麗な景色なんで、見惚れてただけです」
初めて城の外に出て、空の下に居た。外といっても、塔から放射状に伸びている水晶の上ですが。けれど、中庭で日光浴していた時とは違い、ここからは国が見渡せる。城を支える浮かんだ大地から流れ落ちる透明な水に、その先の木々や色とりどりの花に、ささやかに営まれている人々の生活に…。
ヒカルが、ぜひ見てほしいというからここに来ました。
「ほんとに綺麗だよね。でも私も、まだあんまりあっちの方へは行ったことがないんだ」
無邪気に笑い、遠くの山を指差すヒカルの横顔を見ていると、やっぱりあの時のあなたではないような気がしてくる。まるで別人。
―――それでも精一杯、最後まで生きなきゃ
そう言ってくれたあなたは、一体どこへ行ったんでしょう。
「…ごめんね」
いつの間にか、ヒカルと目が合っていた。無意識に見つめていたんでしょう、僕は。
「どうして謝るんですか?」
「無理してココに来てくれたみたいだから」
予想もしなかった言葉が、さらりと出てくる。
「だから…私一人ではしゃいじゃったし…ごめんね」
本当に申し訳なさそうな顔をすると、ヒカルは地平線に目を向けた。以前はすぐに途切れてしまっていた大地が、どこまでも続いている。その地平線の彼方に、太陽が沈もうとしていた。
空にはこんな色もあるんだ、なんて…本当に、眠っている間に頭がどうかしちゃったのかもしれませんね。当たり前のことが大発見に思えてしまう。
沈むにしたがって、なんとも言い難い色へと空を染めていく。その様を見つめていると、体の奥がふっと軽くなったように感じた。胃に重く溜まっていたものが消えたような、そんな感覚。
太陽が地平線上で一層煌く。雲も、そよ風さえも紅く紅く染めてしまうような光。
『 』
言葉にならないものが届いた。隣から。
太陽からそちらへと視線を移すと、ヒカルが、こちらが見ていることには気づかずに何かを祈っていた。
ただ立って、じっと地平線を見ているだけのようにしか見えないのに、彼女の心の中の「言葉にならない願い」が聞こえた気がして。
「……ありがとう」
気がついたら、あの時と同じように抱き締めていた。すがりつくような気持ちで。
立派な防具を身につけていなくても、血で濡れていなくても。確かにヒカルはあの時居て、今もここに居てくれるのだと思った。
「怒ってますね」
返事はない。
「ヒカルは怒らなかったんですから、あなたも怒らないでください。変ですよ」
やはり、返事はない。
若干拗ねているように見えるランティスは、どこか一点を見つめたままピクリとも動かない。多分、何も見てないんでしょうけど。
まるで小動物のようなヒカルに抱きつく人間なんて、この国にも異世界にもたくさん居るんでしょうに、どうして僕だけこんなに怒られなきゃいけないんでしょうね。ランティスの、ヒカルへの気持ちを知っているからでしょうか。
それとも。
「もしかして、セフィーロには読心術のようなものがあるんですか?」
気がわかるのは知ってますけど。
「…いや、ない」
ようやく返事をくれる。
「だが、お前の考えていることは、少しくらいわかる」
お互い様ですけどね。付き合いが長いと、変に気を遣わなくて楽ですけど、隠し事ができないというのは困りものですね。
「…我慢は、しなくていい」
「そう言ってもらえるとありがたいですけど、それでも機嫌は悪いんですね」
葛藤しているんでしょう。僕を心配してくれている反面、ライバルを増やすことに抵抗を覚えている。
「じゃあ…お言葉に甘えて、自分の気持ちには正直に生きていきますよ」
信仰に似た憧れが溶けていった後に残ったのは、冒険心や探究心に似た気持ち。あの小さな女の子の、もっと色々なところが知りたい。くるくる変わる表情や、意外な一面も。
隣にいるランティスが、居住まいを正す。気がわからなくても、彼の行動から僕にはわかる。
「来るんですか」
彼が想いを募らせる人が。僕にとっては…どうなんでしょう。結論は今じゃなくても、いいですよね。
「賭けをしませんか」
「…なんだ」
「どちらが先に名前を呼んでもらえるか、ですよ」
彼女と二人きりの時間をかけて。
「駄目だった方は、都合よく急用でも思い出すことにしましょう」
こののどかな国に、急用なんてあるのかわかりませんけどね。
足音が聞こえる。元気な音。少し息を切らしながら走ってくれている様子が目に浮かぶようで。
「あ、見つけた!」
その笑顔につられて微笑む。僕もランティスも。でも今日は、彼女の口元にどうしても注目してしまう。
どちらが先か。
名前を呼ぶために動く唇。
「 」
ヒカルと二人で、のんびりと空を眺めたいんです。
2006年07月17日UP
原作の、セフィーロへ帰る道の途中でモコナに語りかけるシーンは、自分の中では黄昏時かなと思うんですがどうでしょう。
綺麗なシーンなんで大好きです。