Polaris

1 偶像

 閑散とした白い廊下には、柔らかな陽光が差し込んでいる。僅かに鳥の囀りが聞こえる、麗らかな昼下がりだ。そんな中を、場違いな足音を響かせて駆ける者がいた。

 一つに束ねた金色の髪を靡かせながら、廊下の先の、大きく開かれた扉を潜る。

「各国へ連絡を入れました。すぐにこちらへ向かってくださるそうです」

 疲れた表情を隠しきれない導師クレフは、一つ頷いた。

「他国との連絡手段があって助かった。ありがとう、プレセア」

 いえ、と上がった息を整えながらプレセアは微笑んだ。平常時であれば、褒めの言葉はどれほど嬉しかったか。ただ、今はそれを喜ぶ余裕がない。

「他の者は皆魔物の討伐に向かった。しばらくは動きもないだろう、休んでくれ」

 しかし、プレセアは首を振る。今のクレフの顔を見て、それではとあっさり下がれるものではない。

「導師がお休みください。ここ数日、ろくに休んでおられないでしょう。一度お眠りになってください」

 プレセアの言葉を聞き流し、クレフは動こうとしない。おちおち寝ていられないという気持ちは、当然プレセアも分かっていた。プレセアも、そして城の他の者も心境は同じだ。何とかしなければという、その気持ちだけが先走っている。

「プレセア。この国は好きか?」

 クレフの目は、プレセアではないどこか遠くを見つめていた。一体何が映っているのだろう。ただ、彼の瞳はあまりに暗い。

「好きです」

 それは、半ば自身に言い聞かせる言葉だった。自分はこの国を愛している。この国を支えたい―――目の前の導師もきっと、そうなのだろう。ずっと国を思い、守り続けてきた彼が、揺らぐまいと耐えている。

 エメロード姫崩御の後、この国は崩壊の寸前まで落ちた。そして、柱制度の廃止とともに、緩やかながらも着実に立て直してきたのだ。三国と協力関係を築き、より良い国を造るべく皆が努力していた。その努力が泡になろうとしている。

 始まりはどこにあったのだろう。プレセアがはっきりと異変を感じたのはここ数日だが、事はもっと前から起こっていたようだ。彼女の中での始まりは、一つの偶像からだった。

 魔物の被害があった村へと任務に向かったラファーガが、それを持ち返ってきたのだ。エメロード姫を象った像。それ自体は特におかしなところもない。どこにでもある鉱物から作った、小さな像だ。ラファーガは、ただ、『嫌な予感がしたもので』とクレフに報告していた。

 それは戦士としての彼の勘だったのだろう。その後、ぽつぽつと魔物の被害が増え始め、被害を受けた村からはいずれも、似たようなエメロード姫の像が見つかったのだ。

 プレセアが調べても、像から特別な何かが見つかることはなかった。像が魔物を引き寄せるわけではない。

 新しいセフィーロには慣れないことが多く、単なる偶然かと思われていた。それが結果として今の事態を引き起こしてしまったのだ。

 少しひんやりとした風が襟元から忍びこんでくる。上着を着てくればよかったと、光は首を縮めながら東京タワーへ入っていった。

 屋内の暖気にほっとした光に、前方から手を振る少女がいる。さらりと長い髪にすらりとした手足、そして綺麗な顔立ちを持つ少女に、通り過ぎる人がちらちらと振り返っている。

「お疲れ様。どうだった?」

 二人は連れ立って展望台へと向かった。この休日に制服を着ているのは、高校入試の模擬試験を受けていたからだ。三人とも同じ模試を受けるとなって、折角だから終わった後に東京タワーで落ち合うことにしたのだ。

「書いたのは書いたんだけど…あんまりよく分からない。なんだか不安になってきちゃった。海ちゃんは?」

「私もよ。でも、年明けにはもう入試なのよね。焦っちゃうわ」

 展望台に着くと、今日は人が疎らだった。あまり天気がよくないし、今は観光シーズンから少し外れているのかもしれない。そんな中だったので、風の姿をすぐに見つけることができた。

「風ちゃん」

 光が手を振ると、風は読んでいた本から顔を上げてにっこりと微笑んだ。

「風、早かったのね」

「いえ、私も今着いたばかりですわ」

 人の少ない展望室で、三人は和気あいあいと語り合った。今日の模試の様子や、普段の学校のこと、最近見たテレビの話題。

 受験シーズンに突入し、三人が顔を合わせることは極端に少なくなった。夏休みには何度かこうやって東京タワーにやってきたが、後は偶に電話をしたり、お互いの引退試合の応援に行ったくらいだ。

 ふと風が空を見上げたので、光と海もつられて空を見た。

 冬が間近に迫っていることを感じさせる、どんよりとした鈍色の雲が厚く垂れこめている。その下には、東京の景色が広がっていた。

「あれから、一度も見ないね」

 そう言った光の顔が少し寂しげで、海は思わず彼女の頭を撫でた。

 夏休みに訪れた際に、一度だけセフィーロの姿を見ることができた。しかし、それきりだ。向こうへ行くどころか、その後セフィーロを見ることさえなかった。

「私達、これから受験でしょ? 気を利かせてくれてるのかもしれないわよ? 今招喚されたら、折角勉強したことが全部頭から吹っ飛んじゃうわ」

 そうして肩を竦める海を、風はくすくすと笑った。

「それでは、受験が終わったらまたこうして東京タワーに来ましょう。この後はどうなさいますか?」

「私、ちょっとお腹空いちゃった」

「私も。変に頭を使うとね。降りてどこかのお店に入りましょうか」

 エレベーターへと足を向ける海と風に、光も続こうと足を上げた。しかし、踏み出そうとした足は何かに引っ張られ、勢いよく倒れてしまった。

 ドタンという大きな音に、不思議に思った二人が振り返る。転んだ光を助け起こそうとした海は、しかしその場で動きを凍らせてしまった。風の目は大きく見開かれ、何かを叫びそうになる口を両手が押さえている。

 二人の様子を不思議に思って背後を見た光の目には、くっきりとしたセフィーロの姿が映っていた。鮮明に、それもなぜか近づいてきたかのように間近にそれが見える。嬉しい気持ちは沸いてこない。なぜだか、胸の中を不安が支配し、逃げ出したい気持ちに駆られた。

「!」

 立ち上がろうと床についた光の両手は、びくともしなかった。床が波打っている。彼女の下だけ。

「光!」

 海が駆け寄り、光の腕を掴む。床が生きた水のようになり、絡めとるようにして光を包もうとしていた。海が掴んだのと反対の腕を、今度は風が捕まえる。二人がかりで引っ張るがびくともしない。

「どうなってるのよ!?」

「少なくとも、あまり良いことでは―――きゃあ!」

 二人の足元からも波打つ床が襲い掛かり、強い光に抱かれながら、三人は溺れるかのように引きずりこまれていった。

 2012年10月21日UP