Polaris

15 夢現の笑顔

『フェリオは本が好きね』

 読み聞かせをねだると、姉はいつもそう言って微笑んだ。

 本当は、剣術の真似事や、泥まみれになって遊ぶ方が好きだった。けれど、最近何かと忙しそうな姉が、読み聞かせだけは断らないとフェリオには分かっていたから。

『今日は魔神のお話ね』

 ゆっくりページをめくりながら、エメロードは語り出す。本の中にある戦いの物語。

 三頭の魔神が、強大な魔物を打ち破る話だ。このセフィーロのどこかにいるかもしれない伝説の魔神。本当の話かもしれないという期待が、幼いフェリオをわくわくさせた。

 しかし、姉の穏やかな声はいつも彼を眠りへと誘う。やがては、姉に身を預けるようにして目を閉じてしまっていた。

『お休みなさい、フェリオ』

 髪を撫でてくれる優しい手の感触がする。懐かしい匂いに包まれて、彼の意識は夢の中で物語の続きへと進もうとしていた。

「フェリオ王子」

 肩を叩く手を、無意識に払いのけた。まだ「お休み」と言われてから大して経っていないじゃないか。

「どけ、イーグル」

 その声に、フェリオの意識は突然覚醒した。脳天へと振り下ろされるものをぱっと受け止める。

 眩しさに目が慣れてくると、こちらへ向かって本を叩きつけようとしているランティスと目が合った。受け止めた本を奪い取って、さっさとランティスから離れる。

「なんだよ、ご挨拶だな」

 仏頂面のランティスの横には、それを面白おかしく眺めているイーグルもいた。

 城に漸く戻れて、少しだけ休憩―――と思っていたのが、眠ってしまっていたらしい。人気がないとはいえ、一国の王子が城の廊下で眠りこけているのは流石に不味かったか。

「疲れているのは分かる。だが眠るならせめて部屋にしろ」

 怒っているともいないとも言えない平坦な口調で言い放つランティスは、少しも疲れた様子が見えなかった。疲れが溜まっているのはお互い様のはずなのに。

 自分だけ弱い所を見られたようで、フェリオは気恥ずかしくて頬を掻いた。夢の中で昔の思い出に浸っていたなんて、知られなくて良かったと思う。

「導師クレフが呼んでいるそうですよ。大広間に集まれと」

「ああ、分かった」

 大広間へと足を向けながら、フェリオはふと、手にした本を見つめた。自身に向けられた武器としか見ていなかったが、これは絵本だ。

「どうしてお前が絵本なんか持ってるんだ?」

「落し物みたいですよ。さっき女の子から預かったんです。ね、ランティス」

 フェリオの問いに、なぜかイーグルが答える。今に始まったことでもないので、フェリオはそこに突っ込むのはやめにした。

「懐かしいな。魔神が出てくるやつだろ? これ」

 後ろの方のページをめくってみる。魔神が出てくるのはラストだ。しかし、フェリオの期待していた絵は描かれていなかった。

「魔神など出てこない」

 丁度夢で見たあの話ではないのかと、前の方のページを見る。予想どおり、大きな魔物が牙を剥いて暴れている絵だった。やはり、あの話じゃないのか?

「これは…あれだろ? 我儘ばかり言ってた魔導師が魔物になっちまって、村を襲ったところを魔神が助けに来るっていう――」

「助けに来るのは柱だ。魔神の存在は、魔法騎士の伝説と同じく柱に近い者しか知りえない」

 言われてみればそのとおりだ。

「俺はてっきり、魔法騎士の伝説を暗に示してるんだと思ってたんだが……」

 ランティスの言う内容なら、フェリオの大きな勘違いだ。

 ぱらぱらと見た限りでは、確かに魔物を退治しているのは柱らしき人物で、魔神の影など一つもなかった。

 自分がどこかで記憶を改変してしまったのだろうか? 一度は魔法で封印されてしまった記憶だ。少しくらい混乱していてもおかしくはないだろう。

 何とも言えない、微妙な気持ち悪さだけ残ってしまったが、フェリオはそれを無視することに決めた。

「どうでもいいが、お前の機嫌は当分そのままなのか?」

 優しく起こしてくれ、なんて言わないが、せめて寝込みを襲うのはやめてほしい。

 返事をする価値なしということなのか、ランティスは口を動かす気配さえなかった。

「フェリオ王子は、ランティスの機嫌が分かるんですね」

 珍しい、と言いたげなイーグルの口調だった。確かに、「何を考えているのかよく分からない」と零している人間は結構いるが、フェリオはそう考えたことはなかった。

「分かりやすいと思うんだけどなぁ。黙ってても大体分かるぞ。昼寝場所を探してるとか、魔物の気配を探ってるとか。あと、惚れた女のこと考えてるとか」

 おお、殺気。と茶化すと、イーグルも笑った。傍目には、ランティスは先程と変わりない様子で歩いているが。

「照れるなよ。あんまり素っ気なくされると、相手は不安になるもんだぞ―――」

 フェリオの言葉の最後の方は、甲高い泣き声に掻き消された。ぴゅーっと眼前を素早く通り過ぎる影に、ぶつからないようにと慌てて体を逸らす。

「ランティスぅ、どうして迎えに来てくれなかったの~? 精霊の森でずっと待ってたんだからぁ」

「何も約束した覚えはないが……」

 素っ気ない返事をするランティスに、プリメーラは小さな顔を膨れさせた。こうまで邪険に扱われても懲りずに纏わりつくのだから、彼女も相当強者だとフェリオは思う。

「王子!」

 プリメーラが来た方を見遣ると、ラファーガが足早に駆け寄ってくるところだった。

「ラファーガが連れてきたのか? これ」

「救助のついでに精霊の森へ寄ったのです。フウから、モコナを探してくれと頼まれまして……」

 モコナは、普段プリメーラを追い掛け回している。彼女の元へ行けば見つかると思ってのことなのだろう。だが、残念ながら期待は外れてしまったようだ。

「モコナか。導師の部屋の書類をめちゃくちゃにして以来見てないな」

 導師クレフがカンカンに怒って、なぜかフェリオまで片付けを手伝わされた。犯人であるモコナは平気な顔をしていたので、てんで反省していないと思っていたのだが、あれでもクレフに怒られて少し堪えたのだろうか。

「ところで、この集まりは……?」

 そう言うラファーガは、ランティスとは目を合わせないようにしてその場の面々を見渡したようだった。

 最近はなるべく表に出さないようにしているが、未だにラファーガとランティスは仲が悪い。いや、フェリオから見ると、ラファーガがランティスを苦手としているように見えた。ランティスは多分、何も考えていないのだと思う。それが無愛想に見えて、ラファーガの誤解を招いているようではあったが。

「ああ、導師クレフのところへ行く途中だったんだ」

 一行にラファーガを加えて歩き出そうとした時、踏み出した足を掬われるような大きな揺れが来て、四人は膝をついた。

 大地の底から来る響きが、城全体を揺るがす。あの時の崩壊を思い出すような強い揺れだった。

 揺れが漸く落ち着くと、次に襲ってきたのは耳をつんざくような音だった。

 窓がビリビリと鳴り、強度の弱いところにひびが入る。それが鳥の声だと気付くのに、フェリオはかなり時間がかかった。

「今のは?」

 イーグルの質問に答える者はいなかった。

 だが、フェリオの脳裏には、昔見たあの絵が鮮明に浮かび上がっていた。

(今のは、まさか)

 四枚の翼を持つ鳥。フェリオが実際に目にしたことがあるのは人の形をしたものだったが、あれも確かに鳥の翼を持っていた。

 風が空に浮かんだ山で甦らせた魔神、空神ウィンダム。今の声はそれだと、彼はほとんど確信していた。

「行こう」

 立ち上がり、足早に大広間への道を進む。その間も、フェリオの鼓動が落ち着くことはなかった。

(柱のいない今のセフィーロに、魔神は必要ない。なのにどうして……)

 そんなもの、答えは簡単だ。しかし、頭の中でさえ、彼はそれを言葉にすることを躊躇った。

 夢の中の姉の笑顔を思い出す。まだ柱でなかった頃――そして恐らく、あの頃、次代の柱になる準備がフェリオの知らぬところで行われていたのだろう。もうじき生き別れになる弟に覚らせぬようにと笑顔を浮かべていた姉の姿は、今では痛々しい姿にしか見えなかった。

 誰かが柱になれば、悲しむ誰かがきっと存在する。柱の復活を願う者の真意はまだ分からないが、その事実だけは覆すことができない。だから、それだけは阻止したいと思っていたのに……。

 大広間の扉を開くと、導師クレフとプレセアの姿があった。こちらを見るその顔に、緊張の色が見える。

「導師クレフ、今のは――」

 クレフは一つ頷くと、己の背丈を超える杖を掲げた。宝玉から溢れる光が、辺りを包み込む。

 眩い光が去ると、薄暗い廊下と、その先にある一つの扉が目に入る。その扉に向かって、クレフは指輪をはめた手をかざしていた。

(やめてくれ)

 見たくないと、その瞬間、フェリオは現実を直視することを拒否していた。だが、指輪の魔力で、扉は透けて消えていく。

 もう長い間、ここを訪れていなかった。

 床に水を湛えた部屋。台座の上には、金色に輝く光の球が浮かび上がっていた。

『フェリオ』

 光の向こう側に、悲しみを隠すように微笑む姉の姿が見えた気がした。

 2014年11月24日UP