18 証の往く先
「まだ年若い貴方に託すのは申し訳ないけれど……でも、ルーチェならきっとできるわ。私は信じて、ここから祈っていますからね」
それは、先代の柱であった大伯母――厳密には大伯母ではなく、もっと昔の人らしいけれど――の言葉だった。
歴代の柱の中でも特に強い心を持った彼女は、何百年もの間、この国を一人で支えた。まさに神と崇め奉られるような存在だ。
けれどそれも昔のことだ。柱の証をルーチェに託すと同時に、白く滑らかな肌は浅黒く皺が寄り、艶やかな髪は色と輝きを失い、手足を自由に動かすことすら難しくなった。
柱である間は、他者に手を下される以外で命を失うことはない。寿命は柱の証が支えてくれる。逆を言えば、柱の証を手放せば、その恩恵を受けることはできないのだ。
美しく気品ある姫君だった大伯母は、今は床に伏したまま、干からびた小さな体で命の灯火が消えるのを待っている。本来なら、柱の代替わりの後はすぐに命を落とすものだ。それが数年の間生き続けていられるのは、ルーチェを心配してくれているのと、彼女が今も変わらず強い心を持っていることの証なのだろう。
セフィーロの柱がエメロード姫である内に柱の代替わりを行おうと提案したのは、大伯母自身だった。漏れ聞こえてくるエメロード姫の様子から、セフィーロは暫くの間安定しているだろう事は予想がついた。大伯母自身にはまだ余力があったが、セフィーロが安定している内に代替わりを行う方が、こちらの国に負担が少ないだろうと踏んだのだ。
「モコナ……私、ずっと不安だったの。エメロード姫が亡くなってしまったのは、私のせいじゃないかって。私の力が足りないばかりに、エメロード姫に負担がかかってしまったんじゃないかって」
モコナは、困ったようにこちらを見上げていた。小さく鳴く声は、心配してくれているようにも聞こえた。
モコナの見せてくれたセフィーロの様子から、エメロード姫がセフィーロを支えられなくなった理由が分かった。魔法騎士達が何をしたのかも。そして、なぜセフィーロから柱が無くなったのかも。
(きっと、ヒカルは私を殺しに来たのではないわ。けど……それなら、どうしてこの国に来たのかしら?)
他の魔法騎士達も来ているのだろうかと考えていると、モコナが悲鳴のような声をあげて跳び上がった。
「お前の力が足りなければ、どうしてセフィーロの柱に負担がかかるんだ?」
背後から聞こえた突然の声に、ルーチェはモコナを抱えて逃げ出した。壁に背中をひっつけて、声がした方を見遣る。桃色の豊かな髪を靡かせて、獣のような鋭い目をしている。モコナの映像の中に現れたあの人の姿だと気付いて、ルーチェは壁に背を預けたままへたり込んだ。
「ノ……ノヴァ、なのね?」
ノヴァはにやりと笑うだけで、肯定も否定もしなかった。けれど間違えようがない。映像とはいえ、つい先程見たばかりなのだから。
「それで?」
「そ、それでと言われても……」
ノヴァは先程の問いに対する答えを求めてきた。笑ってはいるけれど、その彼女が恐ろしくて仕方がない。光の元へと帰ったはずなのに、なぜここにいるのかも分からなかった。
「だって、そういうものなんだもの。どうしてと訊かれても困るわ」
自分でも情けなくなるくらいに声が震えた。ノヴァは幽霊のように半透明の姿でふわふわしている。手には武器を持っている様子もない。だが、恐怖はそんなことでは逃げていってくれなかった。腕の中のモコナだけが心の支えだった。
ルーチェの様子から、ノヴァは話にならないと悟ったようだった。「ふうん」と呟いて、もうその話題に関しては興味を無くしたようだ。元々、光以外には大して興味がないのだろう。
「じゃあ、あの男は?」
「あ、あの男?」
「ランティスはどこだ?」
光だけではなく、彼までこの国に来ているというのだろうか。しかし、この部屋に籠っているルーチェが来客の様子を知る術などなかった。窓の外を眺めることはできるけれど、見渡せるのは空と庭、その先の海くらいのものだ。
「あの男がこっちへ来るのを確かに見たんだ」
知らないとでも言うように、モコナは必死になって首を振っていた。
(こちらへ来ていた? 王族でなければ気軽に出入りできない場所なのに?)
ルーチェのいるこの部屋とその周囲は、臣下であってもおいそれと足を踏み入れることのできない場所だ。出入り口は常に兵士が見張っているし、結界も張り巡らされている。実体のないノヴァはともかく、いくら魔法剣士といえど、誰にも気付かれずに侵入することなど不可能だ。
(あ……待って、もしかして……)
この部屋の扉を開けて入ってきた時の兄の姿が、ルーチェの脳裏に浮かびあがった。
瞳の色こそ兄のものだったけれど、髪は黒く長身で、魔導師である兄では有り得ないほど体格が良かった。
辿り着いたその推測に、ルーチェの心がざわざわと波打った。
兄はランティスの姿を借りていたのか。だがどうして? ランティスの姿で何をしていたのだろうか?
兄が他人の姿を借りるところは何度か見たことがあるが、大抵は城の兵士が多かった。己の記憶か、もしくは誰かから拝借した記憶の中にいる人物の姿しか借りることができないからだ。ルーチェより自由がきくとはいえ、王族である兄がセフィーロの人間とそう簡単に会えるとは考えにくいし、意味もなく姿を借りたりもしないだろう。
嫌な予感が胸の内を占め、鼓動が速くなる。何か、目の前にある大事なものを見落としているような気がした。
動揺を隠しきれないルーチェをよそに、ノヴァはぱっと窓の方に振り返った。そして、別れの挨拶もなく空気の流れに掻き消えるように部屋を去っていってしまった。
(助かった……)
無意識に大きく息を吐いた。ようやく生きた心地が戻ってくる。
なぜ突然去ってしまったのかは分からないが、ルーチェにとっては非常にありがたいことだった。人との会話に飢えてはいても、相手が悪すぎる。
ノヴァの去っていった方を見ると、窓の外に明るい空の色が見えた。夢中になって、徹夜してしまったらしい。
実体がないはずなのに、彼女の去った後のこの部屋の空気が、先程までとはひどく変わってしまったように感じた。
何度も名前を呼ぶ声で、漸く光は瞼を上げた。
心配しているとも怒っているとも言えないノヴァの顔と、その向こう側に天井が見える。
「私、眠ってたのか?」
体を起こすと、背中や頭がズキズキと痛んだ。床の上に寝ていたらしい。
「私がいない間に、夢の中で誰と会ってたの!?」
夢と言われて、光はそういえばとぼんやり思い出した。確かに夢を見たような気がする。だが、途中から夢が変わってしまったからか、はっきりと思い出せなかった。
そもそも、自ら眠りについた記憶はない。うとうとしたとしても、床に倒れてしまえばその時に目が覚めるはずだ。ノヴァの言葉もあって、光は既に、先程のものがただの夢だとは思えなくなっていた。
扉の前で人の話し声がして、やや乱暴に鍵を開ける音が響いた。それと同時にノヴァの姿が消えていく。光は立ち上がると、後ずさりして扉から距離を取った。
大きな音をたてて扉が開き、仮面の男が入ってくる。先程の冷静さはなく、大股に近づいてくる。武器も防具もない光は、手を握り締めて身構えることしかできなかった。
男は光の手首を掴んで己の方へ引き寄せると、彼女の眼前にもう片方の手を突き出した。思わず、目を閉じる。
しかし何も起こらないことを感じ取って、光は恐る恐る目を開けた。男の人差し指と中指が、自分の額を指している。それはまるで、クレフが魔法を授けてくれた時のようだった。
仮面の奥にある瞳には焦りが感じられた。それが時と共に次第に収まっていく。初めて会った時の瞳に戻った時、男は光の手首を離し、額からも手を下げた。
男の目は、光ではないどこか遠くを見つめている。一体何が分かったのだろうかと光は考えたが、その疑問を口に出す暇はなかった。
男は入ってきた時の慌ただしさで扉の方へと戻ると、外にいた兵士達に口早に指示を出した。兵士達も慌てた様子で動き始める。
ノヴァのことを気付かれてしまったのだろうか。それとも、自分が夢で見たことと何か関係があるのだろうか。
光が見つめる先では、仮面の男が外を見つめ続けていた。扉と男の間から、木々と地面が垣間見える。そこを、複数の兵士が右往左往している様子も窺えた。「獣が出た」「森の奥も探せ」と、口々に叫んでいる。
(獣?)
その単語が、夢の一部を鮮明に思い出させた。初めはランティスがいたのに、途中で獣に変わったのだ。獣と言っても、光る目を見て獣だと感じただけだけれど。
その獣に何か語りかけられた気がする。それを思い起こそうとしていた光の思考は、扉を閉める大きな音で中断された。
びくりとして顔を上げると、仮面越しに男がこちらを見つめていた。てっきり男は出ていくものと思っていたのだが、どうやらそのつもりはないらしい。ノヴァと話をしたかったが、それは叶いそうになかった。ノヴァも、彼女の心の奥に閉じこもり、こちらに声をかけてくる気配さえない。
「安心してください。危害を加えるつもりはありません」
ふと、光は、男の声が常人のそれになっていることに気付いた。前は、まるで声を無理矢理変えているようなおかしな声だったのに。これが、この人の本当の声なのだろうか。
「貴方は、セフィーロの柱ですから」
その言葉に、光は足元がぐらついたように感じた。自分の心臓の音が大きく鳴り始める。
「……私は、もうセフィーロの柱じゃない」
そう口に出したものの、男が言っているのはそういうことではないと、光は薄々気付いていた。
(そうだ。夢の中で……あれは、柱になれと言ってたんだ。そうすれば、誰かの命が助かるって)
もう一度柱になれというのだろうか? けれど、自分が柱の任をまともにこなせるとは思えなかった。セフィーロのことだけを祈り続けるなんて、とても――たとえ嫌われてしまっても、好きだという気持ちをなくすことなどできない。
「貴方さえ望めば、もう一度柱になることは可能です」
「そんなの……けど、柱の証だってないのに」
光のその言葉に、それまで滞っていた部屋の空気が動いた。光と男の間に――正確には光の前に、風が収束していく。そしてそれは、光の球へと姿を変えた。
「そんな……でも、どうして……」
これが何か、分からないわけがない。自分は一度手に取ったことがあるのだから。だが、どうして再び自分の前に姿を現すのか。柱がいなくても、今のセフィーロはあんなに綺麗なのに。
「それが、偽ることのないセフィーロの民の願いです」
光の足は、柱の証から遠ざかるように後ずさった。
「貴方は、貴方個人の幸せをとるのですか? 大勢の民の幸せを無視して」
「あ……貴方は一体誰なんだ!? ここがセフィーロじゃないなら、一体何の関係があるんだ!?」
「私も、セフィーロに柱がいることで幸せになれる人間の一人です」
激しい鼓動は、まるで打ち付けるように彼女の頭にまで響いていた。自分が柱をなくしたのは過ちだと言っているのか、セフィーロの人々は。クレフは? プレセアやフェリオは――ランティスは?
誰かと話がしたい。柱候補になった時、イーグルと話し合ったように。自分の意見を聞いてくれたクレフや、思いを打ち明けてくれた海や風と話がしたい。
「貴方が柱にならなければ、やがてセフィーロは崩壊するでしょう」
「そんな……わ、私をここから出して!」
「それを手に取れば、好きにできますよ。柱にできないことなどありませんから」
光は自分の手を握り、己の体へと引き寄せた。それは精一杯の意思表示だったが、柱の証は、何も気にしないというようにただ静かにその場で輝き続けていた。
2015年04月18日UP