Polaris

19 ある人の日記

 中にいる人物の気配を感じ取って、クレフは一呼吸置いてから扉を開けた。

 自室に、男が一人座っている。ランティスとイーグルの姿は既にない。片付いていない書物を脇によけて、男は気怠そうな様子で机に頬杖をついていた。

「そなただったのか」

「久しいな、導師クレフ」

 男は、深い皺の刻まれた顔に笑みを浮かべる。クレフはその隣に一つ椅子を出して腰掛けた。

「導師はよしてくれ。兄弟弟子の仲だというのに」

「導師は導師だろう。お前と一緒に師に教えを乞うていたとはいえ、今となっては、俺はただの老いぼれだ」

「なら、それが導師に対する態度なのか、そなたは」

 行儀の悪さに眉を顰めたものの、男は笑って居住まいを正そうとはしなかった。それが、この男なりの親愛の情の表し方でもあった。

 ほとんど同時期に師の元に弟子入りした仲だ。クレフにとっては兄弟のような存在だった。

「お前はいつまで経っても若々しいな。何百年の時の流れを忘れてしまいそうになる」

「子を授かれば、子の成長と共に老いるというからな。それを考えれば、そなただけ老いた姿をしているのはおかしくないだろう」

 まだ自分が真の意味で幼かった頃の記憶が甦った。二人で競い合うように魔法を学んだこと。日々の暮らしの中での戯れ。古い記憶だ。

 自分には才能がないと彼が師の元を去っていった時、クレフはひどく寂しかったのを今でも覚えている。

 道が分かたれてから、二人はあまり交流することがなかった。クレフは師の元でさらに研鑽し、やがてセフィーロ最高位の魔導師となった。忙しいというのもあったし、何となく気まずさもあった。ただ、人づてに、彼が遠い地で書物に埋もれて暮らし、家族を作り、村の者達に慕われる魔導師であるという話は伝わっていた。

「先程の男は、お前の教え子だろう」

「ランティスのことか?」

「セフィーロで唯一人の魔法剣士。そして、あの神官ザガートの弟でもある」

 男の瞳の奥に怒りを見てとって、クレフは少し身構えた。

「お前は俺に……いや、セフィーロの皆にこう言ったな。『ザガートは、エメロード姫の祈りが弱まっているのを隠すために暴挙に及んだ』と。お前のことだ、まったくの嘘というわけではないのだろう。だが――」

 クレフは目を伏せた。確かに、クレフは真実の全てを語ってはいなかった。なぜ姫が祈れなくなってしまったのか。そしてなぜ消滅してしまったのか。

 エメロード姫が恋をしたからだとは言えなかったからだ。そして、その姫を手にかけたのが魔法騎士だとは言いたくなかったのだ。

 そんなクレフの様子を見て、男は溜息をついた。

「……お前の教え子は、お前によく似たな。その心の強さも、自分一人で抱え込んで大問題を起こすところもそっくりだ」

 返す言葉もなかった。

 エメロード姫も、ザガートも、アルシオーネも――黙って国を出てしまったランティスも。誰も、クレフに悩みを打ち明けてはくれなかった。それはクレフにとって悲しいことだったが、彼の言うとおり、クレフ自身が教え子達に心の弱さを見せたことがないからだった。

 師として強くあろうと願うばかりに、教え子達と悩みを分かち合ったりはしなかった。

 もしも自分の目指す姿が違っていたなら、教え子達も変わっていただろうか。今となっては分からないことだが。

「俺は、お前やお前の教え子達ほど強くはない。使えない魔法もあれば、家族に愚痴をたれることもある。だから、お前には打ち明けるぞ」

 顔をあげたクレフが見たのは、怯えた子どもにも似た男の顔だった。

「俺は、柱のいない世界が怖い」

 それは、意外にもクレフが初めて投げつけられた言葉だった。きっと心の内では誰もが考えたことだろうに、誰一人、クレフに面と向かってそう告げる者はいなかったのだ。

 長い間柱に守られた国。平穏を約束され、何も心配することなどなかった。それが突然、姫の祈りの不安定さから国は傾き始め、ザガートに怯え、ついには城しか残らないほどの崩壊へと進んだ。そして、その崩壊が終わってみれば、守ってくれるはずの柱はどこにもいなかった。

「柱がいないというのが不安なのは分かる。だが……なぜ、今なのだ。この一年、苦難はあれどこの国はこれほどまでに再生した。それなのに――」

「夢を見た」

「夢?」

「一度ではない。何度も、ここのところは眠りにつく度に」

 他の者もそうなのだと言う。近隣に住む者、他の村の者。皆が揃って同じ夢を見るものだから、それは「ただの夢」から恐怖の対象へと変わった。

 だが、クレフはそのようなものは一度も見た覚えがなかった。

「それは、どのような夢なのだ?」

「お前も知っているだろう。子どもに話して聞かせるお伽話だ」

 わがままを繰り返していた魔導師が魔物に変貌し、子どもを襲う。それを、最後は柱が退けて助けてくれるという話。わがままばかり言ってはならないという戒めの童話だ。

「幸い、幼子は夢を見ておらんようだ。見ていればひどく怯えただろう。この程度の混乱で済んで良かった」

 ただの童話ではないか、と切り捨てることはできなかった。

 己の子や孫、親しんでいる村の子どもが襲われる夢を何度も見れば、それを切り捨てることなどできない。

「……それで、柱の復活を望んだというのか……」

「皆、お前のように強くはない。自分の大切なものを守るために、何かに縋らねば生きてはいけないのだ。……すまない」

 クレフは首を振った。謝られるようなことではない。彼が頭を下げる必要などないのだ。

「しかし、これほどまでに混乱を来たしてしまったのは俺のせいでもある」

 男は懐に手を入れると、古びた一冊の本を取り出した。誰かの手記のようだ。端はボロボロで、表紙に書き込まれた字も薄れてしまっている。

 ページを慎重に捲ると、彼はクレフにそれを手渡した。

 一見すると、それは日記のようだった。

 クレフが生まれるよりはるか昔の年代であることが読める。よくもこんなものが残っていたものだと驚きながら、クレフは目を通した。

 その日、セフィーロは雨が降った。

 その翌日も雨。さらに雷が鳴った。

 またさらに翌日、雨は止んだが、凍えるほどの寒さになった。

(柱が祈れない状態になったのか)

 大昔の柱も、エメロード姫と同じように恋をしたのだろうか。この時代の柱が誰だったのか、クレフはすぐに思い出すことができなかった。だが、蔵書をひっくり返せば、おそらく記録があるだろう。

 日記に綴られている文字が乱れた。震える手で書いたような字だ。

 日記の中でさらに翌日、その日、大地は大いに揺れ、長い尾を持つ巨大な獣がセフィーロの大地に姿を現した。

 尾は木々を薙ぎ倒し、爪は山を砕き、牙は幼子や若者を貫く。

 この日記の持ち主は、家の中で家族と共に震えながら、窓越しにその光景を眺めていたようだ。

――ソニカ様がご乱心なされた。ソアラ様、どうか我々をお救いください。

 救いを願うその文章で、その日の日記は終わっていた。

 そして、それ以降のページには何も書き込まれていなかった。

「俺が探した限りでは、その日記の続きはなかった。書けない状態になってしまったのか、書く気がなくなったのかは分からんが」

 こんなものが残っている方が奇跡というものだ。セフィーロは何度か崩壊の危機に陥り、その度に大地は崩れた。城で保管してあるような重要な書物ならともかく、それ以外は大地と共に消滅することの方が多いだろう。

 クレフ自身、聞いたことも読んだこともない話だった。城の書物でまだ手をつけていないものは数知れないし、長いセフィーロの歴史の中で、これほどまでに古い年代のものはあまり詳しく把握していなかった。

(しかし、これほどの出来事ならば、小耳に挟む程度はあって良いものだが……)

「ありがとう。そなたがいなければ……私では、これに辿り着くことはできなかった」

「……村の者達に、俺はこの話を漏らしてしまった。それがこの有様だ。軽率だったと思っている……すまない」

 クレフはもう一度首を振った。一人で抱え込むには、この事実は大きく、そして恐ろしすぎた。夢が現実となるかもしれない。そしてそれが過去に起こっていたのだと知れば、口を噤んでいることなどできないだろう。

「遅かれ早かれ起こったことだ。そなたが責任を感じることなどない」

 クレフは立ち上がると、男を扉へと導いた。

「俺に手伝えることがあれば言ってくれ。しかし……」

 男の視線に合わせて、クレフは窓の外を見た。雲は多いが、今日も良い天気だ。もう日も高くなっている。長い時間話し込んでいたようだった。

「こんな時間に人を呼び出すとは、お前らしくもない」

「すまない、礼儀に欠けてしまったな」

「礼儀はどうでもいい。昨夜はまともに寝たのか? その前は? どうせ、もう時間の感覚も鈍っているのだろう。少しは眠っておかないと、その折角の頭が使いものにならなくなるぞ」

 目を丸くしているクレフをよそに、男は自分で扉を開いた。開いた先の廊下には、ランティスとイーグルの姿があった。話が終わる頃合を見計らって、待っていたのだろう。

 男は「帰りくらい一人で問題ない」と突っぱねると、そのまま一人去っていってしまった。クレフには見慣れていない、曲がった背中だった。

「ランティス」

 クレフの声に、ランティスはこちらを振り向いた。いつもどおりの、何もないというような顔をしている。

 何もないわけがないのだ。何も言わないだけで。

 疲労も溜まっているだろうし、光のことも心配だろう。この件がなくても、ザガートの弟だということで白い目を向けられることも少なくないのに。

「お前も疲れているだろう。もうこんな時間だが、少し休んでくれ」

「大丈夫ですよ、導師クレフ。ランティスは、ついさっきもぐっすり眠ってましたから。何だかんだと、暇を見つけてはちゃんと休んでます」

 イーグルの言い様にランティスが少しむっとするのが伝わってきて、クレフは笑みを零した。良い友人を持ったものだと思う。良いきっかけではなかったが、国を出たことは、ランティスにとって良い収穫に繋がったようだ。

「それなら、私は少し休む。何かあったら起こしてくれ」

 それだけ伝えると、クレフはもう一度部屋の扉を閉めた。杖を置き、サークレットを外して寝台に倒れ込む。

 横になったのは何日ぶりだろうか。そう思う間もなく、彼の意識は眠りの中へと落ちていった。

 2015年04月24日UP