25 朝影
彼の手の中には、この国ではまず見かけない細工を施した鉱物があった。手のひらに納まる程度の棒状のそれは、角度を変えると中に埋め込まれた回路が浮かんで見える。
木漏れ日に煌めくそれを見つめていると、ランティスの脳裏に夜更けの光景が浮かんだ。
思いがけず一人きりになれるようになった彼は、噴水のある方の中庭にいた。最近お気に入りだったもう一方は、とても行く気にはなれない。自分を真似たあの男が現れた場所だと思うと、とても。
久しぶりの訪問にも関わらず、黙って座っていると鳥が集まってきた。彼らなりに気遣ってくれているのか、そっと寄り添うだけだ。
その鳥達が急に飛び立ったので、ランティスはその原因へと目を向けた。中庭の入り口に人の姿がある。夜空と暗い廊下を背景に、白く浮き立っているように見えた。
「……いいのか、出歩いて」
お前自身が皆に釘を刺したのに、というところまで相手は読み取って、肩を竦めた。
「そうですね。これは一種の賭けです」
そう言うと、彼は懐から取り出したそれをランティスに差し出した。
「上手く使ってください。タイミングが良ければ、いい戦力になると思いますよ」
反射的に受け取ったそれが何か、ランティスも知らないわけではなかった。だが、受け取ってしまって良かったのか困惑してしまう。
「隠してはいますが、貴方ならきっと見つけられるでしょう?」
「……分かった」
ランティスのその返事に満足したのか、これ以上話はないと彼は踵を返した。それを思わず引きとめる。
「イーグル」
名を呼ぶと、ちゃんとイーグルは振り返ってこちらを見た。それから、彼は困ったように笑った。
「どうして、貴方がそんな顔をしているんですか」
自分はどんな顔をしているのだろうか。それは、噴水の水面に目を遣ってみてもよく分からなかった。小さな波が彼の顔をゆらゆらと揺らしている。
肩に鳥の重みを感じて顔を上げると、もうそこには誰もいなかった。
(……そろそろ、導師からの頼まれ事をしなければならないか)
ランティスは預かり物をしまうと、探索を止め城内へ向かって歩き出した。
「アスカ様」
背後からかけられる声にも、彼女は振り向かなかった。
「アスカ様、お待ちください」
それでも手元に視線を落としたまま前に進む。追い付かれては嫌だと足を速めると、手にした茶器が煩く音を立てた。皿の上で茶菓子が滑っている。
「私がお持ちしますから」
嫌だと突っぱねようとしたところで、運悪く、彼女のつま先は衣の裾を引っ掛けた。しまったと思った時には盆は手から離れており、磨かれた石の床の上に派手な音を立てて落下する。載っていた器も菓子も軽く跳び上がり、中に入っていた湯がまんべんなくそれを濡らしていった。
「アスカ様、お怪我はありませんか?」
彼女の前に回り込み、心配そうにサンユンがこちらを覗きこんだ。熱い湯を引っ掛けはしなかったし、器も割れてはいないので、怪我はどこにもできていない。それを確認すると、彼はほっと息をついた。しゃがみ込み、廊下に散らばってしまったものを盆の上に載せていく。
「今行かれても、イーグルさんはもうここにはおられないと思いますよ。日が昇りきる前に船が発つのを見ましたから」
「……なぜ、起こしてくれなかったのじゃ」
それが理不尽な言い草だと、彼女自身気付いていないわけではなかった。こちらが会おうとしたところで、あの男が会ってはくれないことも本当は分かっていた。自分と茶を嗜めるような状況ではないのだ。
けれどそれを頭で分かっていても、どうしてもそうしたい気持ちが強かったのだ。
「アスカ様」
零れた湯を手拭いで拭ききっても、サンユンは立ち上がらずにこちらを見上げてきた。彼女の視線が床に落ちているからだ。
「イーグルさんは、アスカ様のことを恨んだり、怒ったりはしておられないと思います――」
「わらわはあの男は嫌いじゃ」
その言葉と裏腹に、声は震えて裏返った。
こちらの知らぬ間に柱候補になっていたと後から知って、何だか無性に腹が立った。
それに、面と向かって話していても向こうがこちらにほんの少しも心を開いていないのが分かるのだ。誠実そうに見えるが、実はそうではない。そうする価値がアスカにはないのだと突きつけているのと同じなのだから。
だからアスカはイーグルが好きになれなかった。それなのに、今は目の前のサンユンの顔が歪んできてしまう。喉がきゅっと締まる。
「……じゃが、傷つけたかったわけではないのじゃ……」
彼を傷つけたのは自分だ。後先考えず、あんなことを口走らなければ良かった。自分の不安を、あんな形で表に出してはならなかったのだ。
イーグルの表情は何も変わらなかったけれど、アスカには、ほんの少し動揺の色が見えたような気がしていた。
サンユンがアスカの手を取って、何かを握らせる。よく見ようとして瞬きすると、雫が一粒落ちていった。
新しい手拭いだった。
「アスカ様があの時何もおっしゃらなくても、他の誰かが指摘なさったと思います。誰でも疑うところですから」
貰った手拭いで目元を拭うと、優しく微笑むサンユンの顔がはっきり見えるようになった。
「……サンユンは優しいの」
小声で呟くと、それが聞こえなかったらしい彼はきょとんとして首を傾げた。
「よし。では我らにできることでセフィーロの人々を助けねばならぬな」
もう行ってしまった人を追っても仕方がないのだ。死に別れたわけでなし、謝罪は次に回せばいい。
「あの時、コルティナの王子がアスカ様からイーグルさんへ矛先を変えたということは、我らファーレンには手が出せないのでしょう。頑張りましょう、アスカ様」
「うむ。しかし、その前に茶を入れてくれぬか」
零した分だけ、喉が渇いた。
サンユンもそれを分かっているのか、気恥ずかしそうに歩き始めるアスカに笑みを零した。
目には見えない壁を触ってみる。
(成程。あの司令官を閉じ込めていたものより丈夫にできている)
リオは導師クレフの張った結界の強固さに、抗ってみるのをやめた。
自分が魔導師だと分かった以上、導師クレフは手抜かりのないようにしているだろう。無駄な足掻きで労力を消費するのは避けたい。
こちらから本国への連絡は、今のところ不可能だった。だが、導師クレフとて万能ではない。このような事態になった以上、リーザはコルティナの兵を率いて正面からやってくるだろう。大人しく帰してくれるのならばそれで良し、もしそうでなければ戦闘になる。導師クレフが他のことに気を回すことがあれば、この魔法を破る隙もできるというものだ。
彼としても、打てるだけの手は打った。三国全てを退かせるのが理想ではあったが、そこは仕方がない。チゼータを退かせることはできたし、あの様子ではオートザムのブレーンはここを去っただろう。それだけでも良しとすべきだ。
リオは、平静を保ったままこちらを見つめ返すイーグル・ビジョンの顔を思い出した。
彼の魔法では、心の奥まで覗くことはできない。あれは賭けだった。
(完全に敵に回しただろうな)
歩んできた過去を見れば、その人となりは分かる。敵に回したくない人間ではあった。怒りの矛先が、コルティナではなく自分個人に向けられることを祈るのみだ。
自分の役目はもう終わっている。だから、彼自身は、ずっとここに捕らわれていようがどうでも良いのだ。だが、あの現場に居合わせた以上、ルーチェの動揺は避けられない。そしてその動揺は、コルティナという国自体を揺るがすだろう。
コルティナは、今非常に不安定だ。セフィーロの柱は復活したが、落ち着くにはもう暫くかかるだろう。その間、なるべくルーチェを混乱させるような真似は避けたかったのだが。
なぜルーチェがあの場に現れたのか、光のことを知っていたのか。リオには分からなかった。今どうしているだろうか。
部屋の中に光が差してきて、リオは顔を上げた。扉が開いたのだ。
食事を手にやってきたのは、フェリオ王子だった。この部屋には、今のところ彼か導師クレフしかやってきていない。下手な人間を接触させて、リオが何かを吹き込むことを警戒しているのだろう。
(それを考えると、この王子は恐らく頭が切れる)
イーグルの記憶では、フェリオ王子に関してはほとんど何も分からなかった。セフィーロの村々で情報を集めてみても、エメロード姫の弟だということくらいしか分からない。旅芸人の一座に加わっていたという噂はあったが、どういった人物か、剣や魔法の腕等に関しては何も分かっていなかった。
しかし、導師クレフの信用を得てここに出入りしているのだから、侮れる相手ではない。
「ここに置いておくぞ。何か必要なことがあれば言ってくれ」
知人に話しかけるように平然としている彼に何も答えないでいると、フェリオは一度肩を竦めただけでその場を後にした。
部屋の扉が閉まる。
廊下に一人になってから、フェリオはふっと息を吐いた。
(落ち着け。怒りに任せたっていいことは何もない)
リオ王子は、今のところフェリオには何も言ってはこなかった。風のことを口にするのは、わざわざ相手に情報を渡すようなものだ。第一、今彼を一発殴ったところで彼女がどうにかなるわけではない。
導師クレフが光から聞いたところ、海と風は異世界へ帰ってしまったようだ。それを裏付けるように、彼の手元には二つのオーブがある。
無事なのだろうかと思いつつも、心配してばかりもいられなかった。やらなければならないことは山ほどあるのだ。
フェリオは気が進まないながらも足を進め始めた。
導師クレフに頼まれてから、フェリオはそこにほとんど籠りきりなって本を捲っていた。だが、本と向き合うのは、決してフェリオの得意とするところではない。それなのにクレフがフェリオにこの仕事を頼んだのは、彼が王子であるが故だった。
セフィーロの王族にどんな意味があるのか。それはフェリオ自身もはっきり認識してはいなかった。柱が不在の間に一時的に国を担うためなのか、繁雑な国政を柱に代わって行うためなのか。
生まれた頃にはきっと存在意義はあったのだろう。しかし、姉のように王族が柱になることは過去を遡ってみても決して珍しいことではなかった。そうして歴史を紡ぐうちに、やがて意味が薄れてしまったのだと思う。
そして、フェリオ自身が王族として暮らした期間は非常に短かったのだ。王族としての知識も心得も何もない。
それでもフェリオが本に埋もれることになったのは、蔵書のほとんどが王族が管理していたものだからだ。クレフ個人の蔵書は勿論彼自身が把握しているため、調べなければならない数は王族のものの方が多かった。
(その本だって、導師が保管していなければ今頃どうなっていたか)
崩壊するセフィーロで、フェリオは本のことなど全く頭になかった。そもそも、王子として暮らしていた頃、部屋中を覆い尽くすほどの本を見上げた記憶がぼんやりと残っているだけなのだ。
さて、それと向き合わなければと、フェリオは扉を開けた。風通しの悪さからか、むっと籠った埃っぽい空気が漏れ出す。
部屋の奥へと進んでいると、書架の間からプレセアが顔を出した。
「フェリオ王子。どうでしたか?」
「気味が悪いくらいに何もないな。今のところは良い気分転換だ」
実際、ずっとここに閉じ込められていると気が滅入る。あの男に会うこと自体は嬉しくないことではあるけれど。
「プレセアも、少し外の空気を吸ってくればいい。全然休んでないだろう?」
「いえ、私は……。導師クレフの仰っていた二人の人物の名前ですが、『ソアラ』という女性の方しか見つからないんです」
プレセアは、手にしていた本を捲った。表題を見る限り、歴代の柱に関するものらしい。
「『ソアラ』というのは柱だったのか」
耳にしたことのない名だ。と言っても、歴代の柱など姉とその前くらいしか覚えていないが。
「ええ。導師クレフが読まれた日記の頃には柱として在位していたようです」
そうであれば、あの日記の文章の意味も分かる。日記の主は、柱に救いを求めていたのだ。
ふと、フェリオはプレセアの持つ本の厚さが目に入った。彼女が開いたページは、分厚い本の中の最初の方だ。
「少し借りていいか?」
プレセアから本を受け取る。『ソアラ』より前のページには、誰もいなかった。
(この人物が、最初の柱なのか?)
いや、違う。建国はもっと前のはずだ。そして、柱は建国当初からいたはず。
「プレセア、これより前の柱を記した本はあったか?」
「いえ、今のところは……」
「分かった。ありがとう、俺も自分の持ち場に戻るよ」
本をプレセアに返し、フェリオはさらに部屋の奥へと進んだ。
プレセアが調べている箇所は、創師として彼女が保管していたものや、セフィーロ全土に制限なく広まっているものが多い。
そう考えると、歴代の柱を記したはずの本に、途中の代からしか載っていないのは引っかかった。
自分が探すべきところに辿り着くより先に、フェリオの目はもう一人の人物の姿を捕えた。
いつもの恰好では狭すぎるのか、鎧を脱いだ姿で書架の間に納まっている。こちらに気付いて一瞥したが、何を言ってくるでもなかった。フェリオも何も言わずに先に進む。
魔導書に囲まれているランティスは、一見した限りでは特に変わりなく見えた。
本来この仕事をする予定だったクレフは、今は光に付き添っている頃だろう。そのことを、そして大広間でのことをどう考えているのか、フェリオには読み取れなかった。
リオ王子の『あれ』は、イーグルを排除することだけを狙ったものではないだろう。ランティスの動揺も狙っていたのだ。前後の会話が分からないのでイーグルの真意は分かりかねたが、あそこで何を言おうが白々しいだけだ。だから、イーグルは何も言わなかったのだ。もしフェリオでも同じようにしただろう。だが、何も釈明がなければ疑惑は当然晴れない。二人の間にはわだかまりができる。
ランティスは、魔法騎士達を除けば唯一生き残ったクレフの教え子だ。魔導師としての力は、今やクレフ以外では敵う者がいない。そして柱になった光にとって鍵となる人物だった。コルティナ側からすれば、この件に関して彼に自由に動き回られては困るのだろう。もし光が姉と同じ道を辿ってしまえば、努力も苦労も水の泡だ。
(全く気にしていない、というわけではないんだろうな)
だが、フェリオを含め、誰一人としてその藪をつつく者はいなかった。
2015年06月05日UP