Polaris

26 天泣

 ザズが大きな溜息をついても、もはやジェオは何も言ってこなかった。

 NSXの中はまるで葬式のような雰囲気だ。まさかイーグル一人いないだけでこの有様とは、ザズは思ってもみなかった。

 以前イーグルがいなくなった時は、まだ戦いの最中だから良かったのだ。緊張が途切れる暇がなかったから。ところが、やることと言ったら事務作業だけ、そして敵の影もないという中途半端な状態では、指揮は低下していく一方だった。

 ジェオの能力に問題があるなどということは決してない。以前も急だったのに、あれだけまとめ上げていたのだから。

 機密情報の閲覧履歴を流し読みしていた目は、ついに情報を読み取ることをやめた。全く頭に入ってこない。そもそも、情報漏洩の話が出てからずっとやっているのだ。いい加減頭が痛い。

「……あのさ、ジェオ」

「おう、終わったか?」

「いや、全然」

 同じように別の履歴に目を通していたジェオは、くるりと椅子を回してザズの方を見た。

「かったるいのは分かるが、俺達でやるしかねぇだろ。このレベルの情報を他の者に回すわけにいかねぇし」

「分かってるけどさー……」

 そうではない。この作業は確かに退屈だし面白くないが、胸の中のもやもやはそれが原因ではなかった。

 外はセフィーロで、良い天気だ。艦内に籠りきりでこんなことをしていると、そのもやもやはどんどん膨らんでいくような気がした。

「だー! 酒だ、酒飲もう! ヤケ酒だ!」

 座りっぱなしの椅子から立ち上がって伸びをすると、すぐにジェオから「これが終わったらな」と釘を刺された。

 大人しく座りなおす。酒までの道のりは、まだまだ遠そうだった。

 久しぶりに、明るい夜だった。夜空には雲一つない。

 魔物討伐の支度を整えながらも、今日は幸い空振りに終わりそうだとラファーガは思った。

 ここ暫く続いていた混乱で、親衛隊の者達も疲労が溜まっている。何もないならばそれに越したことはない。

 ラファーガは支度を終えると、すぐそこのバルコニーに立つカルディナの後ろ姿に目を遣った。手すりに体を預けるようにして、ずっと遠くを見つめている。

 今朝頃からずっと、彼女は持前の陽気さを失っていた。ずっと気を張っていたのが、ここに来て疲れが出たのだろうと彼は考えていた。深刻な事態が続く中、笑顔で回りを励ましてくれていたのだから。

「カルディナ」

 バルコニーに入り、彼女の隣に立った。目の前の景色は穏やかなものだ。

「もう行くん?」

「ああ。だが、今日はすぐに帰ってこられるだろう」

 心配させまいと選んだ言葉にも関わらず、カルディナの顔は星明かりの下で一層暗くなったように見えた。

「どうした。何か心にかかることがあるのか?」

 彼女とて明るいだけの人ではないと知っていたが、それにしても思い悩んでいるように見える今の様子は彼を不安にさせた。

 好きな人にはいつも笑顔でいてほしい。心の底から笑っていてほしいと願っていた。

 カルディナには珍しい大きな溜め息をつくと、彼女はひとしきり悩んだ末に口を開いた。

「あんな。……こんなん、この国で言うんはおかしいって分かってるんやけど」

 ずっと感じていたのだと、カルディナは言った。セフィーロに来てからずっと。

「この国の人らは、小さい子が辛い目に遭うてるの見ても何とも思わんの?」

 昼間であれば聞き逃してしまいそうな、小さな声だった。彼女自身、大声で言うのは憚られたのかもしれない。

「ここでは意志の強さが大切やいうのは分かってる。チゼータとは違うんやって。けど、だからって子どもをほっぽりすぎちゃうかって。アスコットかて、あんな小ちゃい姿で一人ぽっちやったんや。魔物の友達がおる言うても、あの子を見守ってやる大人は誰もおらんかった。だからザガートの下に就いてもうたんや」

 ラファーガが初めてカルディナに出会った時、彼女はアスコットを連れていた。大地が崩れ始めたセフィーロで、彼を庇いながら逃げ惑っていたのだ。初めは姉弟かと思ったものだ。それくらい、カルディナがアスコットを想う様子は他者から見てもよく分かったし、また、アスコットがカルディナを慕っているのも一目瞭然だった。

 チゼータで生まれ育った彼女から見たセフィーロの人々は、どのように見えるのだろう。

 つい先程も、彼は魔物が出没する気配のなさに安堵してしまっていたのだ。再び誕生した柱という存在に、無意識に身を委ねてしまっている。

「本当は、大人が子どもを守ってやらなあかんと思う。せやのに……うちに力がないのも分かってるんや。前だって、魔法騎士のお嬢様方が戦いに出るのを、指咥えて見てることしかできんかった」

 それはラファーガとて同じだ。外からの敵に、何の手も打てなかった。ラファーガだけではない。ほとんどのセフィーロの人々がそうだったのだ。

「柱になったヒカルを見とって……うちはどうすればええんやろうと思ったんや」

 カルディナは唐突に手すりを叩くと、大きく伸びをした。

「もうお終いや! 辛気臭いのは終わり! 仕事の前やのに、付き合うてくれてありがとう」

 普段の姿にがらりと変わるその速さに、ラファーガは一瞬呆気にとられた。こちらが何を言ったわけでもないのにこうも気持ちの切り替えができるとは、まだ知らない彼女の強さを見たような気がした。

「出来んことをグダグダ言うだけで出来るようになったら、誰も苦労せん。とりあえず今できることはしっかりやっていかな」

 プレセアに夜食でも届けようかと語る彼女からは、もう先程の様子は影も形もなかった。

 自分も含めて、柱に依存しない生き方をこの国の人々は見出さなければならない。決して目を逸らしてはならない課題だ。それが、どんなに難しいことであろうとも。

 ラファーガは言葉の代わりに、カルディナの華奢な体を抱き締めた。すっぽりと覆ってしまえるほどの、小さな体だ。

 忘れてはいけないのだ。当事者になって考えなければ。もし、自分の愛しい者を愛せない世界になってしまったらという、その恐怖と悲しみを。

「そうや。ラファーガに言うとかな」

 カルディナの手が彼の頬を捕えたのにあわせて、ラファーガは彼女の目を見つめた。星明かりで悪戯っぽく光る、明るい瞳だった。

「ラファーガが柱になったら、うちはラファーガを誘惑しにいくさかい」

「な、なぜそうなる」

 少し赤くなるラファーガを見て笑いながら、カルディナは嬉しそうにその胸に頭を預けにいった。

 城の周囲に広がる森の中に足を踏み入れ、ランティスはその奥へと目を凝らしていた。朝の柔らかな光が遠くまで照らしている。

 合間を縫っての探索ではあったが、大体の目星はついている。それほど時間がなかったことを考えても、そう遠い場所ではないはずだった。

 今日もよく晴れている。空に雲は一つも見当たらない。風は穏やかで、近頃頻繁に出没していたはずの魔物は鳴りを潜めていると聞いている。コルティナの動きも今のところ見えてこない。

 息つく暇もなく働きづめだった人々が安堵しているのは知っていた。国内は落ち着いており、敵意ある者は壁に阻まれて入国できなくなった。目に見える恐怖はどこにもないのだ。だが、ランティスにとっては、今の国は息苦しくて仕方がなかった。

 自分の頭上に広がる空は、この空を抱える心は、本当に晴れているのかと不安にかられてしまうからだ。それは、彼が他国を旅する前に味わったものと同じだった。

 まだ少し時間はある。もっと奥へ進んでみようかと考えていたランティスは、ふと背後に人の気配を感じ取って振り返った。

 その姿を見つけて、ランティスはぎくりと身構えた。

 森を少し入ったところで、光が目を丸くしてこちらを見つめていた。一年ぶりに見る瞳だった。彼女があの国から戻ってきてから、彼は一度も会いに行ってはいなかったのだ。

 柱の証は、彼女の心の一部を制限していると導師クレフは言っていた。記憶はある。だからランティスのことは覚えている。だが、それに付随する感情が以前と少し異なっている様子だと。

 どちらにせよ、そう易々と光に近付くのは憚られた。彼女の心の負担になってしまうのは本意ではない。

 今この場はどうすべきか。黙って森の奥へ進むべきだろうか。逡巡するランティスの頬を、冷たい何かが打った。空を見上げる。

(……雨か?)

 どこまでも澄んだ青空なのに、細かい雨が落ちてくる。視線を空から戻すと、光も不思議そうに空を見つめていた。

 嘆息する。

 仕方がないと諦め、ランティスは足を進めた。

 距離を縮めると、光もそれに気付いてこちらを見つめる。もう既に雨粒をつけているその頭上に、ランティスは外套を広げた。

「なぜ、ここに来た」

 これ以上濡れてしまう前に城内に戻れと続けるところだったが、光の方が速かった。

「ランティス、昨日もどこか行ってたよね?」

 見られていたのだと知って、口を噤んだ。

 それから……と、光は少し言いよどんだが、真っ直ぐこちらを見つめて言った。

「あの、ずっと辛そうな顔してるから……大丈夫かと思って」

 思いがけない言葉に、ランティスは目を丸くした。そんな、心配されるような顔をしていたというのか。だが、この場にはそれを確かめるための噴水も水たまりさえもなく、確認のしようがなかった。

「私、何か力になれないかな? クレフもプレセアも他の皆も、いいから休んでてって何も手伝わせてくれないんだ」

「……お前は今、この国を支えているんだろう」

 これ以上何をする必要がある。他の者も思ったであろうことを口にすると、光は少しむっとしたようだった。

「大切な人達を助けたいと思うのは、柱でもそうじゃなくても関係ないよ」

 そう言ってからふと気づいたように、光は慌て出した。

「ラ、ランティス、このままじゃびしょ濡れになっちゃうよ。一緒にお城の中に戻ろう?」

「いや、俺はまだ探しているものが――」

「じゃあこっち!」

 言うが早いか、光はランティスの手を取って森の奥に進み始めた。探し物をしているなどと口にしてしまったのが迂闊だった。一緒に探すつもりなのだろう。

 前を行く彼女の頭上を守りながら、以前にも似たようなことがあったのを思い出す。彼女にもその記憶はあるはずだが、一体どのように覚えているのだろうか。

 大樹の下に乾いた地面を見つけると、光はそこへとランティスを導いた。幾重にも重なる枝葉のおかげで、この程度の弱い雨ならどうやら防ぐことができそうだ。

「それで、ランティスは何を探してるんだ?」

「それは……言うことはできない」

 ランティスの返答に、光は目に見えて落胆した。意気込んだり落ち込んだりと忙しない。以前もこんな風だっただろうか。柱の証の影響なのか、いや、そもそも、平時であれば彼女はこういうものなのだろうか。

「すまない」

「ううん、私の方こそごめんなさい。ランティスを困らせたかったわけじゃないんだ」

 光は首を振ると、雨を降らせ続ける空を仰ぎ見た。

「……雨、止まないね。一応、止んでほしいなって思ってるんだけど」

 上手くいかないな、と光は肩を落とした。

 隣にいるこの少女の心一つで天候さえも決まるというのは、新しいセフィーロに慣れ始めていたランティスにはひどく奇妙に思えた。むしろ、それを当たり前のように受け入れていた、旅に出る前の自分が不思議ですらある。

 昔から、空は柱の心を映す鏡だった。健やかな時は穏やかに晴れ、悲しみは雨を降らせ、怒りは稲妻を呼ぶ。己の心の内が国中に知れ渡るというのは、当人にしてみれば気分の良いものではないのかもしれない。

 晴れているのに雨が降る。

 それは目に見えない歪みの表れのようで、ランティスを不安にさせた。

「あのね、ランティス」

 光の目が、真っ直ぐにランティスを見た。そこには何もない。以前見られた、戸惑いや、気恥ずかしさ、それらが入り混じった複雑なものは何もない。積み上げたはずのものは全て取り払われていた。

「柱の証が……前は、剣の形になったんだ」

「ああ」

 ランティスも、目に焼き付いているようにその様子が鮮明に思い出せた。炎か光でできているような、眩しい剣だった。

 光は胸元から柱の証を取り出した。並べればどちらが本物か分からなくなってしまいそうなほど、母の首飾とそっくりだった。

「どうして今回はこの形になったのか、私には分からないんだ。ランティスは、どうしてだと思う?」

「……人の心は常に一定ではない。以前と比べ、お前の心が変わったんだろう」

 どういった変化かは、ランティスには知る術がなかったが。

 光は、あまり納得できない様子で首を傾げた。

「それは、そうかもしれないけど……そうじゃなくて……何ていうんだろう。私、このペンダント、見たことある気がするんだ」

 光のその言葉に、ランティスは違和感を覚えた。見たことがある気がする、というのは、覚えていないのだろうか。

 記憶を失くしたわけではない、ただそれに付随するはずの感情は抑えつけられている。そう導師クレフは言った。

 それなら、今彼女が言ったことは何だ。感情と一緒に記憶の一部も欠けているのか。

 今彼の前に現れたのは、明らかに「綻び」の一部だ。じっと首飾を見つめる光の横顔を見ながら、ランティスの心臓は目の前にぶら下げられた二択に激しく脈打ち始めた。

 綻びの、その糸を引っ張るべきだろうか。それともそっとしておくべきだろうか。

 柱になったからと感情の一部が抑制されているのは、本来の彼女の姿ではない。他者からの押し付けなどない方が良いに決まっている。

 そう考える一方で、本来の彼女に戻れば苦痛を味わうだけではないのかという思いもあった。柱は誰かに想いを寄せることができない。それは彼女自身よく分かっている。本来の感情を取り戻した結果、泣いて苦しむことになるのではないか。

 この場は引き上げて、導師クレフと相談することも選択肢にはあった。けれど、彼は端からそうするつもりはなかった。

 迷ったのは一瞬だけだ。最初から自分の気持ちは決まっていた。それは彼女を思いやってではなく、彼自身の願いのためだった。

「お前が見たというのは、これのことか」

 ランティスは、懐から取り出した首飾を光の前へと差し出した。木々の間から漏れてくる陽光に、金の縁取りが煌めく。

 自分の手にしているものと瓜二つのそれを見て、光の目は大きく見開かれた。

「……それは、ランティスのなのか?」

「昔はそうだった」

 柱の証を握る手を取る。そして、その手のひらの上にランティスは輝鏡の首飾を置いた。彼の手ではすっぽり覆えるそれが、彼女の手では収まりきらずに大きく見える。

「今は、お前のものだ」

 手渡したあの日から。そしてあの時から、自分の心は決まっている。今も決して変わっていない。

「でも、これ……ランティスの大切なものだ。そうだ、大切なものなのに……」

 手の中の首飾へと視線を落とすと、彼女の瞳に陰りができた。

「あの時……私、部屋に置いていったんだ。これをつけている資格なんて、私にはないと思ったから」

 声は暗く沈んでいった。その彼女の心を映すように、日が陰ってくる。

 項垂れてしまった光の顔を覗き込むように、ランティスは膝を折った。

「だって、私の心がもっと強ければ、イーグルは……それにランティスも、傷付かなくて済んだのに」

 雲が空を覆う。日の光が届かなくなった森の中は、途端に暗くなった。その中で、光の瞳は戸惑うように揺れていた。

 悲しいことに、それはランティスのよく知っている光の姿だった。笑顔はあまり見たことがない。けれど、偽りのものを見ていたくはなかった。

「俺は、お前に返事をしたはずだ」

 あの時、差し出した手は空を掴むだけだったけれど。

 こうして目の前にいるのに、どうして避けなければならないのだ。なかったことにしなければならないのだ。あんなに、会いたいと望んでいたのに。

 綻びから溢れ出た記憶と感情の波に飲まれている彼女の肩に手をやる。それから、ランティスはそっと唇を重ねた。

 2015年06月12日UP