Polaris

27 慈雨

 雨に濡れていたからか、唇に触れたそれは少し冷たかった。

 東京にいた頃、会えたらどうしようかとずっと考えていた。言いたいことや聞きたいこと、話したいことは山ほどあったのだ。

 けれど突然気持ちが溢れてきてしまって、何をどうすれば良いのか分からなくなってしまった。

「ヒカル」

 間近にあるランティスの目は、少し驚いたように見開かれていた。

「すまない」

 その言葉に、光は漸く今の自分の状況に気付いた。無意識に流れ出た涙が、次々に頬を伝って落ちていく。

「ち、違うんだ。これは、その、嫌だったとかじゃなくて」

 そう言っている間も、どんどん次の涙が溢れてくる。袖で拭ってみてもきりがない。嬉しいはずなのにこんな風になるなんて、自分でもよく分からなかった。

 そっと頭を撫でられて、光は頬がじんわり熱くなるのを感じた。大きくて優しい手だった。

「もう、元のお前に戻ったと思っていいのか?」

 ランティスの問いに、光は小さく頷いた。

 つい先程までは何の疑問も感じなかったのに、今になってみれば自分の心はどこかおかしかったのだと分かる。

 悩みもなくふわふわと軽かった胸の奥が、雨に濡れた服のようにどんどん重くなっていくのを感じていた。

「ランティス……あのね、私……」

 気持ちが少し落ち着いてくると、今度は己の感情から涙が出てきた。

 あの時、もう時間がないのだと知って慌てて告白してしまったけれど、本当はその前に言わなければならないことがあったのだ。

 受け入れてもらえたからこそ、東京に戻ってからもやもやとしたものを抱えた日もあった。もしそれを知ったら、許してもらえないんじゃないかと。

「ノヴァは、私の心の影なんだ……まだ、私の中にいて……だから、ランティスを怪我させちゃったのは私なんだ。イーグルだって――」

 嗚咽に負けないようにと言葉を紡いでいた口は、体ごとすっぽりと外套に包まれてしまった。布越しに、背中に回してくれた腕の温もりを感じる。

「ノヴァはお前の心が望んで生み出したものではないだろう。デボネアを生んだセフィーロの者達の心も同じだ。そして、魔法騎士の伝説も……誰か一人に非があるものではない。全てこの国が抱える歪みが生み出したものだ」

 慰めてくれているのは分かっているけれど、光はまだ溢れるものを抑えることができなかった。大粒の雨が外套を打ち始めたのに気付いても、どうすることもできなかった。

 自分の心なのに上手くいかない。強い心で願ったって、どうにもならないことはあるのだ。それは、己の剣がエメロード姫を貫いたあの時に痛いほどよく分かって、そして、今も変わってはくれないことだった。

「お前がこちらに来た日の夜に会ったのは俺ではない」

 その言葉に、光はあの夜の光景が鮮明に甦った。思わず顔を上げる。

 もう雨宿りも意味をなさないほどに濡れてしまったランティスは、真っ直ぐこちらを見つめていた。同じ真っ直ぐさだけれど、あの夜とは違う、温かな目だった。

「あの男が何を言ったのかは知らないが、少なくとも……俺は、お前を泣かせるようなことは言いたくない」

 頭の中に残っていたあの声が、雨に流れるようにあっさりと消えていくのを感じる。

 後悔がないなんてことは決してない。自分は何も上手くできなくて、そのせいで色んな人を傷つけてしまった。謝ってもどうにもならないことだというのは変わらない。

 それでも、誰かがそう言葉にしてくれることで押しつぶされそうだったのが少し楽になる気分だった。

 雨雲で暗くなってしまった森の中で、突然、自分の懐から光が溢れた。

 首から外れて再び仮の姿になった柱の証を、光は涙を拭ってしっかり見つめた。

 今度は、もうそれがペンダントの形にならないことは光には分かっていた。

 手渡してもらった本物のペンダントを首に提げ、彼女は柱の証に手を伸ばした。

 その雨音の凄まじさに、シエラは本を置いて部屋の外に出た。

 書架の並んだ室内より、窓の外の方が暗い。まだ朝であるにも関わらず、だ。

(大丈夫かしら)

 柱をなくしたセフィーロは、まだ片手で数えられるほどではあったが「嵐」というものを経験していた。他国では珍しくないというそれにまだシエラも他の者も慣れてはいなかったが、今の状況はまさしくその「嵐」に近いものだった。

 崖が崩れはしないだろうか。動植物に影響はないだろうか。心配事はもちろんあったが、人は皆城内に留まっているのが不幸中の幸いだったかもしれない。

 倒れた人々は皆意識を取り戻したものの、まだ本調子ではない。そして、また同じ策略にはまらないようにと人々を元の住まいに戻すを止めていたのだ。

 まるで何もなかったかのように、人々は穏やかなものだった。それを子ども達が喜ぶのはシエラも何も思わないが、柱の復活を願った人々を以前と同じ目で見られないのは確かだった。

 彼らが見たという夢の恐ろしさは想像でしか分からない。だから、非難できないのも頭では分かっている。それでも一発その頬をはたいてやりたいという衝動もあった。

 シエラはそのまま本の山には戻らず、大広間へを足を向けた。

 穏やかになったセフィーロとは裏腹に、導師クレフの見せる背中が一層小さくなってしまったのがシエラには不安で仕方がなかった。

 新たな道へと進んだこの国のために、彼は懸命に取り組んできた。以前より多忙になったし、分からないことだらけで、彼も、シエラも他の者も、右往左往することが多かった。それでも諦めなかったのは、新しい国に希望を見出していたからだ。きっと良い国にできる、してみせると思っていたからなのだ。

 それなのに、結果としてセフィーロは元の道へと戻ってしまった。

 目の前にたくさんの問題がぶら下がっているからこうして動いているものの、そうでなければもう投げ出してしまいたい気分だった。

 大広間の扉は大きく開け放たれていた。たった一人で、天井を見上げている後ろ姿が見える。

 シエラが大広間に踏み込むのと同時に、クレフは天井から彼女の方へと視線を移した。空と同じ暗い顔をしているのでは――そんなシエラの心配を打ち消すような、柔らかな笑みだった。

 少し驚いて足を止めてしまったシエラを促すように、クレフは杖の先を少し扉の方へと傾けた。振り返ると、暗い廊下の向こうからやってくる人影がある。雨音のせいで、自分の後ろからの足音などまるで聞こえていなかったのだ。

「クレフ、プレセア!」

 駆け込んできた光は、湖にでも飛び込んだように全身ずぶ濡れだった。そして一振りの剣を手にしている。鞘のない剥き出しの刃が、僅かな光を反射して白く輝いていた。

 その後ろから、こちらは歩く速度を変えずにゆっくりとランティスが入ってきたが、彼も同じく雨に濡れたようだった。

「その様子では、以前のお前に戻れたのだな。それは柱の証か」

 光は頷くと、その剣を見つめた。

 刃の形は彼女の持つエスクードの剣によく似ている。柄の部分はシンプルに一つ宝玉がはめ込まれているだけだった。

 創師であるシエラにも、それが剣として優秀かどうかは判断できなかった。そもそも彼女の知る鉱物で作られたわけではないのだから。ただ、宝飾品としては華美さに欠けるのは確かだった。

「ずっと、頭の中に靄がかかったみたいになってたんだ。やらなきゃいけないことも、確かめたいこともいっぱいあるのに、さっきまで全然思いつかなかった」

 この雨は、せき止められていたことの反動だろうか。だから、導師クレフはこの空とは逆に晴れやかな様子なのだろうか。

 クレフは一つ頷くと、「まずは何がしたい?」と問いかけた。そして光の返事は速かった。

「海ちゃんと風ちゃんを、東京から招喚したい」

 招喚という単語にシエラは一瞬どきりとしたが、そんな彼女に対して光はあっけらかんと笑ってみせた。

「魔法騎士の伝説のためにってわけじゃないんだ。東京にいる方が安全なのも分かってる。だけど、私だったらもう一度招喚してほしいし一緒に戦いたい。海ちゃんと風ちゃんも、きっと同じ気持ちで待っててくれると思うから」

「魔法騎士を、伝説のため以外で招喚したことは過去にはないぞ」

 そう言いつつも、クレフは反対している様子ではなかった。好きなようにすれば良いと思っているのは、その顔を見れば分かる。

 今この場で、すぐにでも始めようとする光の肩を、思わずシエラは掴んだ。

 目を丸くして、そんなシエラを見上げてくる。そうすると普段より一層幼く見えた。

「ヒカルの決めたことに反対するつもりはないわ。けど――」

 ほっておいたら、このまま突っ走っていってしまいそうだ。こういう時、導師もランティスも案外気付かない。男の人というのはそういうものなのかもしれないけれど。

「お風呂で温まるのが先よ」

 自分のことをすぐに後回しにする人々には、それを忠告する者が必要だ。ここにいるとそれを痛感する。しかし、彼女もまた自分のことは棚に上げているのだった。

 2015年06月23日UP