8 闇の中の邂逅
「フウ」
懐かしいその呼び声に、風は振り返った。
「頼む。あまり遠くへは行かないでくれ」
「すみません。やはり自分の目で見ておきたかったものですから」
フェリオは風の隣までやってくると、風の見ていたものを見据えた。紫色の、水晶のようなものが地面から伸びている。セフィーロの文字で短い文章が彫られていた。
「まさか、お墓自体があるとは思わなかったんですが…」
光がイーグルの墓だと思い込んだもの。当然、相手が用意したものだと思っていたのだ。
「これはアルシオーネのものだ。この辺りは、元々はあいつが居た部屋があった場所だからな」
彼女の最期は後から聞くことになったが、フェリオ自身はそれほど縁のある人物ではない。弟子として彼女を指導した導師クレフの落ち込みようは酷いものだったが。
「相手の方がしたことは、アルシオーネさんにも失礼ですわ」
風の細い指がそっとセフィーロの文字をなぞる。その手の甲には、見慣れた防具があった。結局はまた戦いに巻き込んでしまったことに、フェリオは眉を顰める。しかし、この状況で武器も防具も魔法もなし、という状態で風と海を放っておくわけにもいかなかった。
「フウ、自分を責めるなよ」
ぴくりと風の指が動く。それをフェリオは自分の手に納めて、彼女をこちらへと向かせた。
光をランティスに会いに行かせたのは自分だ―――きっと風はそう考えるだろうとフェリオは思っていた。
「責められなきゃならないのは、俺達の方なんだ。だから、お前は自分を責めないでくれ」
何者かの力が働いたとはいえ、柱の復活を望んだのはセフィーロの民達だ。自分達の心の弱さが招いたことだ。
俯いて返事をしない風を、フェリオはそっと抱き締めた。ふわふわとした柔らかな髪の感触が頬をくすぐる。手前勝手だが、彼女に再会できた喜びは当然のようにあった。こうしてまた言葉を交わせて、触れることができる。できればこのまま、彼女にはずっと安全な場所にいてほしい。しかし、今のセフィーロで安全な場所というのも思いつかなかった。城の中でさえ安全ではないのだ。敵が化けられるのが、ランティスだけとは限らない。もし自分に化けられでもしたらと思うと、気が気でなかった。
「そういえば」
城の中の安全、と考えた時に、慣れていて忘れかけていたことがフェリオの頭によぎった。
「どうかなさったんですか?」
フェリオの腕の中から抜け出し、風は彼の顔を覗き込む。琥珀色の瞳は、セフィーロの青い空のどこか一点を見つめていた。
「この城は、日が暮れると導師の魔法で結界が張られる。そうなると、導師の許可なしでは誰も出入りできないんだ」
そのこともあって、昼間は閉じ込めていた彼女達を、昨夜は一人にしてしまったというのもある。
結界を解こうと無理をすれば、それにクレフが気付かないわけがない。となれば、敵はどこから侵入し、光を連れ出したのか。
「私達の知らない防御の穴が、どこかにあるのでしょうか」
「もしそうだとすれば、相手にやられ放題ってことか。…行こう」
風の手を取ると、フェリオは大広間へ向かって駆け出した。
相変わらずの闇の中で、初めてノヴァではない人の声が聞こえた。
ぐいと拳で涙を拭うと、鉛のようになった足で立ち上がる。
「誰だろう?」
「ここはヒカルの夢の中だけど…でも、少なくとも、ヒカルじゃないよ」
彼女と同じような、自分が作り出した存在ではない、と言いたいのだろうか。ノヴァの囁く声には、どこか面白がっている響きがあった。彼女が面白がっているということは、私は今の状況が面白いんだろうか? それとも、その逆なんだろうか。
その声はとても微かなもので、暗闇の中では方向もよく分からない。それでも何とか、光は声のする方へと歩を進めた。
「誰? どこにいるんだ?」
「そこにいるのは誰?」
自分と同じように問いかける、それは少女の声だった。彼女自身とさして年の差はないと思われる、幼い声。
「見えないのは不便ね……私はここよ」
声のすぐ側まで来た、と思ったら、不意に手が何かに触れて慌てて手を引いた。
「あなたは誰?」
その声からは無邪気さしか感じない。自分の夢の中だとノヴァは言ったけれど、以前デボネアが現れたことを考えると、現実と全く無関係な出来事だとは思えなかった。
「私は、光。獅堂光」
「難しい名前…異国の人?」
セフィーロには苗字というものがない。それでもフルネームで名乗ってしまうのは、癖のようなものなのかもしれない。
「皆は光って呼ぶよ」
「ヒカル、ね。私はルーチェ。外の人とお喋りするのは久しぶりだから、ヒカルに会えてすごく嬉しいわ」
満面の笑みが見えそうな、本当に嬉しそうな声だ。
無邪気な声に、警戒心は大分薄れていた。人を疑うのは、そもそも彼女の得意とするところではない。考えるよりはとにかく行動する質なのだ。
「ここは私の夢の中じゃないのか? ルーチェはどうしてここにいるんだ?」
「夢の中よ、魔法でお邪魔してるの。ヒカルはいつまでここにいられそうなの?」
「いつまで?」
そもそも自分は、なぜ夢を見ているんだろう。三人で東京タワーへ行って、またセフィーロに招喚されて……。夜中に自分の部屋を抜け出したのは覚えている。堪え切れなくなって、泣き声でミラを起こしてはいけないと思ったから。
夜の出来事を思い出して、また胸がズキズキと痛んだ。ノヴァが言うように、まだ自分自身のことが許せない、嫌いだという感情は確かにある。自分を責めることは多々あったし、後悔してもしきれない。けれど、好きな人からの冷たい視線や言葉はまた別だった。言葉数が少なくて表情が乏しくても、いつも優しかったランティスだから、なおさら。
自分では責められなかった奥の奥まで刃物が突き刺さって、そのまま抜けないような感じだ。思い出したくないのに、何度も何度も映像と声が甦る。
やっと収まった喉の震えが戻ってきそうになるのを、深呼吸で無理矢理抑えつける。目のふちに溜まってきた涙は瞬きして誤魔化した。会ったばかりの女の子の前で、いきなり泣き出すわけにもいかない。
「私は―――」
『ルーチェ、起きて』
突然響いてきた別の声に、光は口を噤んだ。光自身やルーチェよりも大人らしい、凛とした女性の声だ。ルーチェの声とは違い、空から降るように聞こえてくる。
「姉上の声だわ。私が行かなきゃいけなくなっちゃった」
ルーチェの手が光の手に触れる。
「ヒカル、また会えたらいいね」
触れていた手が、そのまま溶けるように消えていく。それと同時に、光自身の世界もぐらりと揺れ出した。
視界に映ったのは、真っ白な天井だった。
(私、いつ部屋に戻ったっけ)
体を起こすのに手をつこうとして、思いがけずバランスを崩してしまった。ベッドから落ち、肩をしたたか打つ。受け身を取れずに体がじんと痺れたが、それよりも自分の今の状況に光は混乱した。
後ろ手に縛られている。手首の部分に何かが巻きついていて、引っ張ったくらいではびくともしなかった。
床に転がった不自然な姿勢のままで部屋を見渡すと、自分の知っているセフィーロ城のあの部屋ではなかった。窓はなく、家具らしいものはベッドしかない。扉が一つだけ、前方にあるのが見えた。
(ここは…お城の中じゃないのか?)
そもそも、縛られる理由が分からない。まさかクレフ達がこんなことをするとは考えられなかった。
起き上がろうと身を捩る光の前に、ふわりと半透明の桃色の髪が靡いた。透き通る姿のノヴァが、横たわる光の顔を嬉しそうに覗き込む。
「やっと、夢の外でヒカルの顔が見れた」
「ノヴァ! 出てきちゃ駄目だ!」
怒りを含んだような光の声にも、ノヴァは口角を上げるだけで懲りた様子はない。
「でも、今はそんなこと言ってる状態じゃないと思うけど」
そう言うノヴァは、光とは違って手が自由にヒラヒラしている。半透明の手が、光の頭を撫でるような動作をしていた。実際には、光の髪は少しも触れられなかったけれど。
「ノヴァ、手を縛ってるものを解いてくれないか?」
「そんなの無理だよ。こんなんじゃヒカルに触れない」
光の目の前にかざしたノヴァの手の向こうに、扉が見える。望んでその姿でいるわけではないらしい。体を起こすことさえ手伝ってもらえないと分かって光はなおももがくが、手が使えないとあっては思うように体は動いてくれなかった。
「セフィーロなら、きっと自由に動けると思うんだ。でも、ここじゃ無理みたい」
ここはセフィーロじゃないのか? という光の問いが口に出る前に、ノヴァの姿は掻き消えた。彼女を通して見えていた扉がゆっくりと開く。
人の気配に、光は自由に動かない体を強ばらせた。
2012年11月18日UP