9 仮面
扉を開けて入ってきたのは、やはり彼女の知っている人間ではなかった。いや、知らないだろう―――ということしか分からなかった。布をたっぷり使った服装はセフィーロのものに似ていたけれど、皆がよく身に着けている宝玉の類はなかった。体格からおそらく男の人だろう。但し、顔は妙な被り物のせいで全く分からなかった。すっぽりとフードを被った上に、仮面をつけている。ぽっかりと空いた二つの穴から目がこちらを覗いているのだろうが、奥は暗くて瞳の色さえ分からなかった。
部屋に入ってきたのはその男一人で、光は僅かに開いた扉と壁の隙間を見た。木々と青い空、それに兜を被った後姿。扉の向こうはどうやら外らしい。兜を被っている人は見張りだろうか?
「手荒な真似をして、申し訳ありません」
男の声を聞いて、光は戸惑うように相手を見つめ返した。その口調が妙に丁寧なのもおかしいが、声そのものが、性別すら分からなくなるようなおかしな声だったのだ。テレビで音声が編集されている時のような、低くもなく高くもなく、その人らしさは押しつぶされてしまったような声。
男は真っ直ぐ光の方へやってくると、あっさりと彼女の両手を解放してしまった。
「…ありがとう」
立ち上がるために手まで差し伸べられて、光は素直にそう言ってしまった。彼女自身はどうやってこの部屋まで来たのか覚えがないが、彼の言葉が本当なら手荒な扱いだったのだろう。ならばなぜ、今になって優しくしてくれるのか。
「ここはどこなんだ?」
光としても、正直に答えてもらえると思ったわけではない。だが、何もしなければ前へ進めない。
男はすぐには答えなかった。見下ろしてくる仮面の奥の表情も、光からは分からない。ただ、こうして近くに来てみて、彼がかなり大柄だということが分かった。ランティスやラファーガほどに背が高い。
「外は危険です。窮屈でしょうが、しばらくはここにいてください」
それは答えになっていなかった。しかし、男は踵を返すと扉の方へ向かう。行ってしまう。慌てて、光は一番問いたかったことを口にした。
「どうして私をここへ連れてきたんだ!?」
男は振り返った。その時初めて、光は男の感情が読み取れたと思った。仮面の穴の向こうから、射抜くような冷たい視線を感じる。丁寧なのは口調だけ。本心では、自分のことを心底嫌っているのだと。
「直に分かります。今度は過ちを起こさないように願いますよ」
今度は光が声をかける間を与えず、彼は部屋を去っていった。
「過ち」
不穏なその単語が、光の小さな体の中をじわじわと満たしていく。心に感じる言い知れない不安に、けれどノヴァが小さく笑っているのが聞こえた。
大広間とは違うやや小さめの客間に、四人の人間が集まっていた。小さな円卓を囲み、クレフ、イーグル、タトラ、チャンアンが腰を下ろしている。
「あの石像…今はタータが調べていると思うけれど、何も見つからないでしょう。導師クレフ、私達をこの国に呼んだ時から、もう見当をつけていたのでは?」
全員で円卓を囲んだ時、クレフは「他国の情報が足りない」と言った。「三国」ではないのだ。
セフィーロ全土を巻き込む今回の出来事を、当然だが一個人や小規模な集団が起こせるわけがない。それなりの規模の集団―――そうなれば、為政者が気付かないわけがない。むしろ、このような大規模な計画には国自体が絡んでいると、ここに集まった者には大よそ見当がついていた。
「念の為に申しておきますが、我々ファーレンは、オートザムを疑ってはおりませんぞ」
アスカ様が申し訳ない、とチャンアンの眉が下がった。先程睨みを利かせていたことを言っているのだ。
「疑われるだけの要素がありますから、仕方ありません。ただ、疑われても勿論否定させていただきますが」
「セフィーロは長い間他国と交流がなかった。稀に旅人が訪れることはあっても、国としての交流は、私の知る限りでは貴方がたと始めるまでは全くなかったのです」
エメロード姫がこの国を支えていた頃も、それ以前も。文献にもそのような記述を目にしたことはない。柱に守られている限り、セフィーロには他国という存在は必要なかったのだ。
「確証はありませんが…一つ心当たりがあるのです」
チャンアンは懐から一本の巻物を取り出すと、円卓の上に広げた。
中央に、ファーレンの絵があった。その傍に、チゼータとオートザム、そして、セフィーロ。他にも、いくつかクレフの見知らぬ国々らしき絵があった。その中の一つ、比較的セフィーロの近くにあった国の絵をチャンアンは指した。
「一年ほど前から我が国と貿易を始めた国…コルティナという国です」
一年前。その場に居合わせた者達の視線が、無言で絡み合った。
デボネアが消え、新しい柱によって『柱』という存在の消滅が願われたおよそ一年前。この国は、アルシオーネの言った「セフィーロの裏」―――デボネア城とそれを取り囲む闇が消えた時、その背後から姿を現した国だった。
セフィーロ自体は、まだこの国との関わりがない。こちらはこちらで、国を建て直すことに奔走していたのだ。しかし、三国を通してその情報は入ってきていた。
セフィーロと三国は、隣国と言える位置にあるものの、それぞれが独自の文化を築き上げている。しかし、この「コルティナ」に関しては、セフィーロと酷似した点が多いとクレフの耳には入ってきていた。セフィーロに詳しくない者にとっては、区別がつかないほどに衣食住の文化が似ている。魔法の概念もある。そして何より気がかりなのは。
「王族が国の全てを司っている…自然摂理でさえも。確かに、セフィーロに似ているわ。けれど本当なのですか? 詭弁ではなく?」
国を統べるために、王族が己を神と偽ることは珍しいことではない。タトラはそう言っているのだ。
イーグルもそれには同意見だった。オートザムに入ってくる情報では、確証を得るどころか、怪しいと思うところもあったのだ。何しろ、セフィーロと決定的に異なるのは、この国はセフィーロほど豊かではないという点だ。
「否定はできませんね。ただ、この場合真偽は問題ではないでしょう。詭弁だからこそ、現状のままでは限界が来ている可能性もあります」
そもそも、セフィーロの柱の復活に何の利益があるのか。たった一年だが、セフィーロは柱不在のままでも順調に進んできたのだ。あえてリスクのある元の状態に戻って何の意味がある? だが、他国から見れば、柱制度の方が都合が良い場合もある。かつて三国が考えたように、柱の座を奪うことさえできれば、セフィーロを植民地化できるのだ。それに、『柱』という絶対的存在を自国に置くことで、国としての利益が生まれることもあるのではないか―――魔法の概念のある国ならば。
イーグルはそっとクレフを盗み見た。この国の湖のような澄んだ色をした瞳の奥で、導師と呼ばれるこの人も自分と同じことを考えているのだろうか。
「…それなりの魔法力がある者が国内に入れば、その者を仲介に私がヒカルを探せるだろう」
クレフの意志は固まったようだった。行動に移せるだけの理由は揃ったのだ。
「船はファーレンが用意しましょう。商人に紛れ込めば、向こうも迂闊に手は出せますまい」
「決まりね」
タトラの言葉を合図に、四人は腰を上げた。
少女を閉じ込めたのは、庭の外れにある離れだった。小さな部屋があるだけのそれは、隅にぽつりと佇んでいる。普段は物置代わりにされていて使われていない。
そこに見張りを二人残して、男は城の方へと足を向けた。
「お疲れ様、リオ」
城の入り口で彼を待っていたのは、船内では冷たい表情を隠そうともしていなかった―――今は快活さに溢れた頼りがいある姿をした親衛隊長、リーザだった。
その姿にふっと息が抜け、リオはいい加減煩わしくなって仮面とフードを外した。澄んだ空気と風が、じんわりと滲んだ汗を冷やしてくれる。
長く溜息をついていると、リーザは汚いものでも見るような目でこちらを見ていた。それに気づいて、こちらも苦笑いしてしまう。
「やめてよ、その顔で笑うの。気味が悪いわ」
「酷い言われようだな」
長くて鬱陶しい前髪を掻き上げる。この魔法―――他者の記憶の中にある人物に擬態する術の困った所は、すぐには元に戻れないことだった。発動から完成までも時間がかかるが、戻るのはそれ以上にかかってしまう。自分はまだ、セフィーロの魔法剣士の姿のままだ。但し、少しずつ魔法は解けてきているので、瞳の色など細部は元の姿になってきているが。
「ルーチェは?」
「戻ってきてすぐに起こしたわ。反応が速かったから、夢で遊んでいたわけではないみたい。また同じことをされては全てが台無しだもの」
男は頷いた。そもそもルーチェの行いがなければ、これほどの手間は必要なかったのだ。けれどそれを言っても仕方がない。彼女には、最後まで気づかれぬままに終わらせなければならないのだから。
2014年05月24日UP