Polaris

野ばら 2

(…眠れない)

 イーグルは体を起こした。もう夜が明けてしまったというに、上の階では豪快な笑い声が聞こえる。きっと兄だろう。

 戦に勝利した後の数日間は町中に酒が溢れていたが、今でもその勝利に酔っているのはあの兄くらいだろう。いくらこの家の功績が称えられたとはいえ、あの態度は褒められるものではない。

 酒と女で夜を明かす兄は昼間に眠っているけれど、イーグルはというと、最近はずっと眠れずにいた。うとうとと浅い眠りを繰り返すだけだ。その浅い眠りの中では、血の匂いばかりを感じてしまう。

 眠れないのは兄のせいではないのだが、八つ当たりに近い気持ちを抱いてイーグルは身なりを整え、上にある兄の寝室へと向かった。

 階上に辿り着く頃には、笑い声は幾分か収まっていた。酔いつぶれて眠ったのだろうかと思ったが、ふと見ると、部屋の扉が開いている。朗々とした父の声がそこから漏れていた。

 父の説教から逃げるようにして、兄の友人が部屋を去っていく。イーグルが中を覗くと、ソファにだらしなく座った兄に、父が懇々と言い聞かせているところだった。

「おい、何か用か?」

 イーグルに気付いた兄が、噛み付くような言い方をした。それを合図に、父も振り返る。

「どうした? また眠れないのか?」

 少々心配げに声をかけるものの、父は再び兄に向き直る。

「こうやって眠れない人間もいるんだ。少しは遠慮したらどうだ?」

「こいつが眠れねぇのは俺のせいじゃないだろ」

 思わぬところで矛先が向いてきたが、兄はすかさず反論する。それから、「ああ、そういえば」と面白そうににやついた。

「この前死んだやつの代わりに、新しい召し使いがいるだろ?」

 この家には元々二人しかいないのだが、一人は戦中に誤って殺されてしまっていた。今は一人しかいないので、手が足りなくて困っているという話は聞いている。

「お前が選んでこいよ。今日はちょうど市がある日だしな」

「…僕が行くより、シティに行ってもらった方がいいんじゃないですか?誰を選べばいいのかわかりませんし」

 シティというのは、今は一人となってしまった女中の名前だ。彼女も、元々は奴隷市で買われた人間である。

「お前の好みのを選んでくればいいんだよ。欲求不満が収まれば、自然に眠くなるだろ」

 あなたと一緒にしないでください…と、喉まで出かかった言葉を飲み込み、イーグルはその場を後にした。眠れない上に、吐き気がしてくる。

 廊下へ出ると、食事を運んでいるシティに出会った。

「おはようございます」

「おはようございます。あ、そういえば、新しい人を選んできてくださるんですよね?」

 つい先程までの話題がまた戻ってきて、イーグルは目を丸くする。酔った勢いなのか謀ったのか、兄はすでに彼女に言っていたらしい。

「ありがとうございます。人手は足りないんですけれど、自分で探しにいく時間もなくて…」

 笑顔で礼を述べる彼女を前にすると、彼も、兄の言葉を無視するわけにいかなくなってしまった。

 朝食を済ませ、イーグルは石畳の道を歩いていた。仕事をする人々とすれ違う中、前方から彼を呼ぶ声が聞こえる。

「イーグル!」

「おはようございます、ザズ。お仕事ですか?」

「今、一段落したトコ」

 煤で服や顔を黒くした彼は、イーグルと並んで歩き始めた。

「今日の昼までの仕事だったんだけどさ、徹夜だったんだよ」

 彼は、鍛冶職人の弟子をしている。おそらく、品物を届けてきたところなのだろう。

 騎士団に所属しているイーグルの剣は、ザズや彼の師匠に任せることが多いので、自然と二人が会う機会は多かった。

「それよりさ、これってドコに向かってんの?」

 何も考えずについてきているザズに、イーグルは小さく笑いを零してしまう。しかし、先のことを考えるとそれ以上は笑えず、少し沈んだ笑顔で答えた。

「市に向かってるんですよ。お手伝いさんを探しに行くんです」

「イーグルが?」

「…シティは忙しいので」

 その説明では納得していない様子のザズだったが、それ以上は深く追求しようとはしなかった。

 やがて二人は、賑やかな広場に出た。そこは街の中心地であり、食料を始め、様々な物が売られている。客を引きとめようと必死に叫ぶ商人の声が行き交っていた。

 その中央には、長細い檻が設置されていた。いつもあるわけではない。週に一回、そこで人の売り買いがされている。

 男か女かに関わらず、年頃の子ども達がその中に座り込んでいた。檻の外からの好奇と嫌悪の視線の中、呆然としている者もいれば泣いている者もいる。かと思えば、気丈に振舞っている者もいた。

 市はまだ始まったばかりなのだが、次々と子どもは檻から出され、人の手に渡っていく。

 イーグルとザズが檻の前に到着すると、ちょうど最後の男の子が買われていったところだった。

(できれば男の子がよかったんですけどね…)

 残った女の子を見て、イーグルはほんの少しだけ肩を落とした。

 兄はイーグルに対して「お前の好みを」「欲求不満を」と言っていたが、それはからかっていただけで、本音では自分自身がそういった奴隷を欲しているのだろう。召し使いでも職業上下手に出ている者に対しても、見境なく女性に手を出す点は、弟としては目を逸らしたくなる兄の短所だ。

 それなら、できるだけ強気な子がいい…と思った。イーグルと目が合った途端に睨み返してくるほどの子がいたが、長く青い髪のその女の子は、女の子というよりは一人の女性で、兄の好みを考えると一番に対象から外すべきだった。

 次に目が合ったのは、その少女の隣に座っていた赤い髪の子だった。先程とは対照的に、周りと比べると大分幼い。くりくりとした大きな目が、不安そうにイーグルを見上げていた。

(これだけ小さな子なら、兄上も手は出さないでしょう)

 この際、数年後のことは考えないことにしておく。

「こんにちは」

 少女の目の前まで移動して、イーグルは声をかけた。少女も、小声ではあったが挨拶を返す。

「僕の家で、お手伝いさんをしてほしいんですが」

「イーグルんトコは絶対大丈夫だよ! 皆優しいし!」

 同じ年頃のザズの言葉に、少女はぎこちなく笑みを返した。

「お願いできますか?」

「…うん」

 その返事を確認し、イーグルは商人に声をかけた。すぐに、商人が鍵を持ってやってくる。

「あ!! おっ前…!!」

 ザズが、檻の反対側を通っていた男を追いかけていく。

「おい! 謝れって!!」

 何事かと思って檻の中を見ると、少女は隣にいる青い髪の少女に頭を拭いてもらっていた。

「ほら、もうキレイになったでしょ? 大丈夫だから」

 小声でそう呟いているのが、イーグルの耳にも届いてくる。

「どうしたんですか?」

 やがて、怒りに肩を震わせて帰ってきたザズに、イーグルは尋ねた。

「あいつ、この子に唾吐きやがったんだ! 女の子に対してすることかよ!」

 腹が立つ! と、地団駄を踏んでいるザズの横で、イーグルは商人に金を渡し、少女を引き取った。

「帰ったら、お風呂に入ってきれいにしましょう」

 ぐっと涙を堪えたままで、少女は頷いた。なんとか、目尻に溜まった涙は落ちずに済んだ。

「ヒカル、元気でね」

 檻の中と外に隔てられてしまったが、青い髪の少女は声をかける。

「ウミちゃんも…」

 ウミと呼ばれた少女は、「平気だ」と言う代わりに笑顔で手を振ってみせ、ヒカルから目を逸らした。この先、会う機会があるのかどうか…それを考えたくはなかったのだろう。

 家路を辿り始めると、ザズはすぐさまヒカルに声をかけた。

「俺、ザズって言うんだ。イーグルの家には割と行くし、何回も会うだろうけど、よろしくな」

 こうやって横に並ぶと、二人の背丈はあまり変わらない。とはいえ、ザズは伸び盛りなので、すぐに追い越すことになるだろう。

「お名前は、ヒカル、でよろしいですか?」

 ヒカルは、今度はイーグルを見上げて、頷いた。

「僕はイーグル・ビジョンです。『イーグル』で構わないですよ」

「え?」

 きょとん、とヒカルの目が丸くなる。

「でも、私…奴隷なんですよね?」

「まぁ、世間一般ではそう言うのかもしれないですけど、僕にとってはお手伝いさんですから。無理な敬語も必要ありませんし」

 今の敬語も、慣れていないのがすぐにわかった。聞いているこちらが歯痒くなってしまったから。

 シティに対しても、イーグルは最初にそう言ったのだが、彼女は「落ち着かないから」と、イーグルに対して敬語を使う。それはそれでいいとしても、無理強いすることだけは避けたかったのだ。

 やがて、ザズは仕事へと戻っていき、二人は並んで歩き続けた。

 まだ知り合って間もない故に、話の種などあるわけがない。ヒカルに「売りに出された身の上話」を尋ねるわけにもいかず、代わりに彼はこれからのことを話し始めた。

「家には、両親と兄と、シティというお手伝いさんがいます。お仕事の内容などは、シティが教えてくれますよ」

 やがて、屋敷が見えてきた。規模としてはそれほど大きくはないが、その外観からは由緒正しいものが感じられる。

 イーグルは、屋敷の門を開こうと手をかけたが、ふと思い立ったようにその手を止めた。

「一つだけ、お願いしてもいいですか?」

 こくりと頷く。その警戒心のなさに、イーグルは少し苦笑してしまった。

「兄に、もし『よくわからない用事』を頼まれたら、僕に呼ばれているからと言ってください」

「よく…わからない?」

「『ちょっと来てください』とか、そういうのです。何か困ったことがあったら、僕の部屋に逃げてきてもいいですから」

 ヒカルは頷いたが、はっきり理解したようには見えなかった。彼の言葉を鵜呑みにしただけらしい。しかし、今のところはこれで良しとする。

「それじゃあ、行きましょう」

 まるで借りてきた猫のような少女の手を引いて、彼は屋敷の門を潜り抜けた。

 2007年07月09日UP