野ばら 3
大理石の床に、元気な足音が響く。貴族の響かせる軽やかな音とも、騎士のような格式張ったものとも違う。
その音に気付いた体格のいい男が、片手を上げて軽く挨拶した。
「ジェオ! こんにちは!」
「ヒカル、今日も元気そうだな」
「うん!」
顔いっぱいに笑顔を浮かべ、ヒカルは頷く。月日の経過と共に彼女は生来の明るさを取り戻し、次第に人間関係を広げていっていた。イーグルと同じ騎士団に所属するジェオも、今ではよく知る一人である。
騎士にしてはラフな格好をしているジェオは、おそらく軽い訓練を終えたところなのだろう。肩にかけたタオルで汗を拭っている。
「イーグルの奴、また忘れ物か? いつも大変だな」
ヒカルは両手で、封書のようなものをしっかり握り締めている。見たところ、報告書か何かだろう。イーグルが何かを忘れるのは頻繁なことで、ヒカルは何度もここへ足を運んでいた。屋敷からここまでは結構な距離があり、こういった時は大抵ヒカルの仕事になる。
「あいつなら、まだ訓練所にいるぞ」
「ありがとう!」
手を振って駆けていくヒカルの後姿を見送り、ジェオはそっと笑みを零した。
彼女が来てから、イーグルの鬱々とした雰囲気も大分和らいだと感じる。まだ眠れないこともあるようだが、それでもかなり改善されたと言えるだろう。
まるで仲のいい兄妹だ、と思いながら、ジェオは再び足を進めた。
汗を拭い、新しく水分を補給すると、イーグルは壁に背を預けた。
その彼の隣に、同じようにする人物が現れる。
「まだ本調子ではないようだな」
「まだ、ですけどね」
もうすぐですよ、と、つい先程まで手合わせしていた男に余裕の笑みを返す。じきに団長になるだろうと言われているからには、そう負けてばかりはいられない。
「そうだな。次に来た時はもう少し粘ってくれると思っている」
「…いつも言うことですが、入団してはどうですか? 傭兵も、あまり楽な仕事ではないでしょう」
傭兵としては名の通っている彼―――ランティスは、いつものとおり「性に合わない」の一言で、イーグルの提案を片付けてしまった。騎士団というものを堅苦しいと感じるのは尤もだが、傭兵というと、善悪の区別もなく金になる仕事しかしない、倫理観に欠けた人間という印象が強い。全ての傭兵がそうだとは言えないが、口数の少ないランティスもそのような印象を持たれることが多い。そんな誤解を彼がそのままにしているのが、イーグルにはどうにも歯痒かった。
「今回はいつまで居るんですか?」
「契約は一週間だ。明日から戦地の後処理をさせられる」
ランティスは、兵の数が足りない時には、雇われた傭兵の一人として騎士団にやってくる。イーグルとも、その時に知り合ったのだ。あまり傭兵らしくない彼と親しくなったのは、以前の隣国との戦争の時だ。戦争というのは、上の人間が何と言おうと、どんな御託を並べようと、前線に立つ者からすればただの殺しだ。自分が死にたくないから、向かってくる相手を殺すのだ。
イーグルは幾度か戦争を経験しているが、その中でも凄惨なものだったのが先の戦争だ。地を覆う屍に、鼻につく血の匂い、夥しい数の餌を見つけて群がる鳥達。
自分は何をしているのだろう。
ふと、そんなことを考えてしまったのだ。正気で戦争などできるものではない。それなのに頭の中が冷え切ってしまい、考える代わりに手が止まってしまう。そんな彼が敵の刃に刻まれるのを防いだのが、偶々傍で戦っていたランティスだったのだ。
(戦争から大分経っているのにまだ傭兵を雇うなんて、やはりこちらも深手だったんですね)
首都であるこの町の騎士も、何人も人の足りない地方に飛ばされている。自分もその内そうなるのでは…と不安を抱えていた彼は、視界の端にあるものを捕らえて顔をあげた。
扉を半分ほど開けて、ひょっこりと現れたその姿。髪の色がどうにも目を引いたのだ。
さっとイーグルが壁から離れる。
そして、周りの視線を集め始めたヒカルを連れて、そっと廊下へとすり抜けた。
「またやってしまいましたか」
決まり文句のようになってしまったその言葉に、ヒカルはくすくすと笑う。
「いつもすみません」
「ううん。私ができるお仕事なんて、これくらいだし」
料理も掃除も、まだ見習いである。必死にやっても満足にこなせないそれらよりは、お遣いは得意な仕事と言えた。
封書をしっかりとイーグルに手渡すと、早速ヒカルは踵を返す。
「それじゃあ、お仕事頑張ってね!」
「ええ、あなたも」
手を振りながら駆けていくヒカルをしばらく見送る。
忘れ物は故意に忘れたわけではないのだが、仕事の合間にこうしてちょっとした息抜きができることを、彼は内心喜んでいる。決して不真面目というわけではないのだが。
さて、とイーグルは室内に戻ろうとして、人の視線を感じた。
視界の隅に、ぼんやりとだが誰かの姿が見える。特定はできないものの、柱の影から覗いている。そして、淡い色のドレス姿が辛うじて確認できた。
「……」
どうしてこっそりとしているのか、と疑問に思ったが、イーグルは気付かぬふりをして扉を潜った。
視線から逃れられて、知らず溜め息をついてしまう。
(まぁ、悪意はないんでしょうけど)
彼の感からすると、彼女は単に誰かを待っているのだろう。けれど、場所が場所だ。敵国の者だ、などと妙な疑いをかけられでもしたら、こちらも色々と仕事が増えてしまう。
正直困る、と思いつつ元の位置に落ち着くと、今度はぎょっとしてしまった。
「ランティス…どうかしたんですか?」
滅多に表情を崩さない人間が、穏やかな笑みを浮かべている。と言っても、それがわかるのはここではイーグルだけなのだが。
「いや」
珍しいものを見るようにイーグルがまじまじと見つめていても、ランティスは相変わらず一点を見つめるだけである。
「世界は狭いと思ってな」
「…何の話ですか?」
「お前で良かった」
「…はぁ」
何のことかと首を傾げるイーグルの隣で、ランティスはまだ扉の向こうを見つめていた。
2007年07月13日UP